能登部上・西馬場・良川は眉丈山麓を通る西往来沿いの集落である。江戸期の初めに、金沢と奥能登を結ぶ交通路は所口(七尾)の繁栄を維持するために所口を経由することが定められた。宿駅は七尾街道(東往来)の二宮と高畠に置かれ、能登部上などを通る西往来は間道として、僅かに良川に馬次所が置かれたのみで、近隣の荷物以外の通過は認められなかった。 しかし幕末になり、海防等の藩役人の奥能登への通行が多くなると、盛んに西往来が利用されだした。そして慶応4年(1868)には二宮・高畠宿の反対を押し切って、西往来の通行が全面開禁された。 眉丈山麓の西往来沿いの集落は、農業中心の集落であったが、農間余稼として芋(おかせ)の生産が行われていた。芋鰍ヘ麻を紡ぎ糸に仕立てたもので、能登部を中心に生産されていた。 能登部上・西馬場・良川は共に天正8年(1580)から長氏領で、寛文11年(1671)より加賀藩領となっている。寛永5年(1628)の家数は能登部上92、西馬場63、良川72であった。天保年間(1830〜44)の家数・人数は能登部上216・857、西馬場98・465、良川220・1,075とある。 町並は西往来に沿って発達し、切り妻造り妻入りで妻面を真壁造りにした大型の商家建物や切り妻造り平入りの大型家屋が混在する。格子を残した家も多く、真っ黒な桟瓦葺の町並はしっとりと落着いた旧街道筋の町並だった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
能登部上の町並 |
能登部上の町並 |
能登部上の町並 |
能登部上の町並 |
能登部上の町並 |
能登部上の町並 |
西馬場の町並 |
良川の町並 |
良川の町並 |