三国町の町並み 
神明・山王・北本町・南本町
地図


神明の町並

  三国町は天下の景勝地「東尋坊」のあるところとして知られている。
三国はかって三国湊と呼ばれ、明治の中頃まで三国湊は北前船の寄港地で、川沿いには廻船問屋の土蔵が並び、商家や遊郭が軒を連ねていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男結城秀康(後 慶長9年に松平と改める)が越前68万石を与えられ福井藩が成立する。
江戸時代以前からこの地で収穫された米は、九頭竜川などの水運を利用して三国湊に運ばれ、更に海路敦賀を経由して近江の塩津・海津に至り琵琶湖の水運を利用して京都へ運ばれた。敦賀・小浜を経由して琵琶湖水運を使うルートは、北陸・奥羽などの日本海地域と上方地方を結ぶ最短路で、西廻り航路が開拓されるまでは盛んに利用されていた。
寛文12年(1672)河村瑞賢により西廻り航路が開拓され、この航路に使用されたのが北前船である。
三国湊は福井藩の領地であって、藩は三国湊の重要性を深く認識して、福井の外港として、また、丸岡藩の外港としても保護するとともに、厳重な統制・監視の下においていた。
三国湊は米穀その他の物資の集散地であって、その発展は北前船の寄港地になったため、多くの廻船業を営む巨商・豪商を輩出させ、日本海沿岸での最大級の湊町となった。
享保10年(1725)には戸数1080軒・人数5300人。元治元年(1864)には戸数1581軒・6437人となっている。
三国湊の代表的廻船問屋に森田家と内田家があげられる。森田家は元和元年(1619)加賀藩主前田利光の藩米輸送に当たって特権を得て豪商になり、幕末から明治にかけて更に大廻船問屋に発展した。明治のはじめには森田家の北前船は三十艘を超え、どこの港に行っても森田家の船があったようだ。もう一方の内田家(室屋)は、宝暦10年(1760)福井藩の御内御用達商人に任命されてから、三国湊の大廻船問屋に成長した。その規模がいかに大きかったかは、安政4年(1857)の福井藩廻米高4万4千俵中3万俵を扱ったことからもうかがえる。
しかし、幕末の御用金調達では、六代目内田惣右衛門の手記によると、同家で負担した金額は享和3年(1803)から文政7年(1826)まで、金額は十二万一千両にも達している。
廃藩になってから商売は自由になったが保護は得られず、大型の蒸気船の就航、鉄道の開通、また、通信の発達により儲けが少なくなり、廻船業が衰退していった。
こうして三国港の船舶出入りは減少、元録期のように半年で2000艘の出入りは、夢のまた夢になり昔日の姿はなくなった。そして次第に商港から漁港的性格を帯びる港に転換した。
町並みを歩くと、港の道に沿った町家は、町家の一般的な特徴である、通り庭を伴った間取りを持っている。特に三国町では港町ということもあって、九頭竜川に面した町家では、通り庭が表の道から川べりまで一直線に続いている。
もう一つの特徴として「カグラ建て」と言われる建方で、本来は切り妻造りの妻入りの家屋の入口側に平入り風の軒を高くしたものを置いていることである。この入口の建物の高さは奥の妻入りの建物と同じ位の高さになり、よく見なければ平入りの建物と思ってしまう。
説明の仕方を変えると、切り妻造り平入りの建物に妻入りの建物を無理やりねじ込んだような建物である。        
町並み指数 60
参考文献
   福井県の歴史散歩  山川出版社  福井県の歴史散歩編纂委員会  1995年
   三国町史  三国町  三国町史編纂委員会
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年  


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