三方五湖の久々子湖の東岸に位置し、北は若狭湾に面する。 慶長15年(1610)の記録によると、久々子湖は久々子村の属しているが、明暦2年(1656)から早瀬浦の三郎右衛門が久々子湖でウナギの延縄漁を申し出て久々子湖を借り受けている。 寛文2年()この地方を襲った地震によって久々子村内の湖岸が隆起し、耕作不能のところが高54石余りの田地になった。 文化4年(1807)の家数115・人数450(雲浜鑑) 久々子湖産のウナギは京都に運ばれ賞味されたが、久々子産を冬子産と誤って呼ばれていた。 家数・人数は明治24年136・685。大正9年162・683。昭和10年186・792。昭和30年224・1,036とある。明治24年には大船3・小船67とある。大正に入ってからは漁業専業の家は無く、多くは農業と兼業であった。近年には海水浴客を当て込んだ民宿業が発達している。 町並みは小さな集落にも拘らず、古い道筋に沿って商家の建物が建つ集落で、かっては近在の農漁村の方たちを相手に商業でも発展していたのだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |