江戸時代には早瀬浦といわれ、東は若狭湾、南は久々子湖に臨み、北に飯盛山がある。 慶長15年(1610)の庄屋の記録では、久々子湖の領有権は久々子村にあったが、早瀬浦が久々子村から湖水での漁業を請けていたので、両浦間の論争が江戸初期から中期にかけて繰り返されている。 宝暦6年(1756)の庄屋記録によると、早瀬・日向両浦には海産物を取扱う仲買・競売人・小売人等がいて、京都・近江・美濃・尾張までも魚類を売りさばく漁師兼業の商人であった。 寛政12年(1800)の庄屋記録によると、早瀬浦には40〜50人の漁師が仲買を兼業し、年間3000個〜5000個の四十物(合物)・生物・塩物の荷物を京都・美濃・尾張に出荷していた。 文化4年(1807)の家数225・人数1,138とある。 早瀬浦では天保5年(1834)頃より脱穀の千歯稲扱機(せんばいねこぎ)の生産が盛んで、明治15年には25,000挺も生産していた。全国に販路をもち女性の多くは販売に従事し、北は青森から南は沖縄まで行商するものは当時80名を数えた。 明治42年の職業別戸数は兼業農家224・工業(含兼業)19・漁業24・商業(含兼業)182・その他65とある。 大正期に入り、足踏み式回転稲扱機(いねこぎき)が考案され、千歯稲扱機が生産されなくなったが、水産物の集散地として活況を呈し市街化して、商店、飲食店、料亭などが多くあった。 今、集落内の町並みを歩くと、こんな小さな集落なのに、漁師町よりも商業地としての名残が多く残っている。道に沿って建つ家屋は農村集落とは全く異なった景観を呈し、なまこ壁の土蔵まであるのはかっての繁栄の証でしょう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
早瀬の町並 |
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