河野村の町並み 
河野
地図


河野の北前船主の家  中村三之丞家

  越前河野は敦賀湾の入り口に位置し、越前海岸として知られている。
河村瑞軒が寛文12年(1672)に開発した「西廻り航路」(大坂と北海道)以前に、河野浦の弁才船が敦賀を基地として松前(蝦夷地)・津軽方面など北国地方まで航行する航路で活躍していた。
それはおそらく、江戸前期に松前(蝦夷地)に進出した近江商人が、その地の「鰊」などの産物を敦賀・小浜湊へ輸送するために共同雇用した廻船、すなわち「荷所船」として松前と敦賀・小浜間を往来した運賃積み廻船であったと思われる。
近江商人 西川伝右衛門の史料によれば、元文〜宝暦期(1736〜64)にかけて「鰊荷所」を運んだ船主の中に、河野浦の中村三郎右衛門や右近権左衛門などの名前を見ることができる。はじめ荷所船に乗り込んでいた北陸の船主や船乗りたちが、自前の船で蝦夷地や瀬戸内海から大坂で活躍するのは、安永、天明(1772〜1788)期になってからで、それが他国廻船の北前船である。
宝暦11年(1761)河野浦の家数は62軒・人数324人で、江戸時代を通じて福井藩領であった。
河野浦の船主らは北前船の船主として、運賃積みによる廻船経営を行いながら、自ら仕入れた商品の売買によって利益を得る買積み経営も行うようになっていった。
しかし、この買積みによる廻船経営が順調に進んだわけではなく、難船破船や「売損」で潰れた船主も多くいたようだ。
この時期の河野浦の船数をみると、寛政10年(1798)には400石積みの弁才船を、中村三郎右衛門が3隻、右近権左衛門が1隻所有していた。ところが嘉永期(1848〜1854)以降になると、右近・中村両家が急激に持船数を増加させていった。
右近家の場合、こらまでわずか1〜2隻であったのが安政元年(1854)には6隻、明治初年には十数隻を所有していた。明治3年の史料によれば、河野浦の海運従事者は90%以上をしめていて、当時の河野浦は、まさに海運を専業とする浦であった。
現在、河野浦には旧道に沿って数軒の船主の家、屋敷が残されている。旧道の海側に倉庫・土蔵群が、山側に船主たちの豪壮な屋敷構えが並び、ひときわ豪華なのが「北前船主の館・右近家」と公開はされていないが中村家だ。
右近家は資料館として平成2年から公開されている。村の旧道を挟んで山側に主屋と三棟の内蔵、茶室一棟、海側には海に向かって開く長屋門を中心に四棟の外蔵が建っている。明治34年に建て替えられた主屋や土蔵は、その材料を北前船で産地から運んだという豪勢なもので、切り妻造りの2階建て、桟瓦葺きであった。
右近家の主力船だった八幡丸の船模型が展示されていて、内部はケヤキやヒノキ材の太い柱を用いた、たいへん豪勢な造りになっていた。         
町並み指数 60
参考文献
   福井県の歴史散歩  山川出版社  福井県の歴史散歩編纂委員会  1995年
   書籍名不明(プロローグ・河野浦と右近家)  山形裕之(福井県立博物館学芸員)
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年  


北前船の館 右近家

北前船主の中村三之丞家 

北前船主の中村吉右衛門家

北前船の館 右近家

北前船主の中村三之丞家

北前船主の中村吉右衛門家
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