小松は北陸街道がほぼ南から北へ縦断し、それらを基軸として城下町が構成されている。 一向一揆の勢力下に有る頃小松城が一揆勢によって築かれた。織田信長は天正8年(1580)村上義明を城主とし、慶長3年(1598)には丹羽長重が入城した。1600年(慶長5年)の関が原の戦後丹羽長重は所領を没収され、前田利長に加増され、小松には城代が置かれた。 小松が面目を一新するのは加賀藩三代藩主前田利常が隠居し、小松城に入ってからである。 利常は幕府の許可を得て城と城下町の改修に着手し、小松城に入城すると、利常に随従した家臣400人余りと家族を含むと2000人余りが移住し、小松の人口は一挙にふくれあがった。 家臣の住居や防衛のための寺院の移転、町人町の造成などにより職人の往来も多く、商業も盛んになった。以前から行われていた絹織は利常の保護政策により益々盛んになった。 利常の死により、家臣の大部分は金沢へ引揚げたが、宿場町・門前町・物資の集散地としては繁栄が続いた。 寛文11年(1671)には泥町・松任町・中町・京町・西町・寺町・大文字町・龍助町・八日市町・東町・新町・土居原町・本鍛冶町・本大工町などがあった。万治2年(1659)の家数は1200。天和3年(1683)の家数1332。そのうち絹織が280・酒造27、油屋11等などがあり、絹織物産業が繁盛していたかが判る。 天明5年(1785)の家数は1883・人数は8971。寛政元年(1789)の家数1702・人数8685。 小松は北陸街道の宿場でもあり、京町には本陣・脇本陣が置かれ問屋場もあった。宝永3年(1706)からは金沢との間に十度飛脚の制も開始されている。 さて龍助町は北に延びる北陸街道沿いに展開している両側町である。本折町から北に続く北陸街道は猫橋(龍助町の南端と本折町の北端の接点付近を猫橋と通称していた)を越えると龍助町、西町、京町と北上し、東に折れて松任町で再び北上していた。 龍助町は絹問屋と茣蓙(ゴザ)問屋の多い町であった。本折町で生産された絹織物が龍助町の問屋で取引されていた。茣蓙問屋も最初は7軒の定めであったが、嘉永元年(1848)10軒となり、明治初年にはもう一軒が開業した。天明5年(1785)の龍助町の家数は155で、小松町の中心地で人家が密集していたので度々大火があった。 天保4年(1833)の火事では1000軒焼失、半壊500、土蔵210を焼失する大火となった。 大火後、2階建ての家が許可されたので、他の町より早く2階建ての町並が出現した。 東町は龍助町の東の八日市町の東側の町で、南北の通りの両側町である。他の町に比べ寺院が多く門前町として発達した。天明5年(1785)の東町の家数は145とある。 西町は小松を南北に分ける九竜橋川の南側に位置する。天明5年(1785)の家数は99とある。 古い伝統的な様式の町並は龍助町や東町に展開していた。共に連続した町並を形成し見応えある景観が続いていた。この町の町並は保存活動云々じゃなく、生活されている家が偶々古い形式の家であったものだ。 殆どの建物は明治に入ってから建てられたもののようで、昭和初期までこの建築様式が続いたと思われる。切り妻造り平入りの2階建てが連続して並ぶ。袖壁を持つ家も多く、軒も揃っている見事な町並が展開していた。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
東町の町並 |
東町の町並 |
東町の町並 |
龍助町の町並 |
龍助町の町並 |
龍助町の町並 |
龍助町の町並 |
龍助町の町並 |
龍助町の町並 |
西町の町並 |