安宅は古代の安宅駅の位置とされており、古くからの海陸交通上の要地であった。 謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」の舞台として有名であるが、この話は史実でないがあえてそれを史跡にしている。 源平の合戦場としても知られたところで、中世には日本海海運の中継ぎ港として商品流通の拠点であり、近世から北陸線が開通する明治の中頃までは、北前船の寄港地として、小松城下の外港として、北前船船主の住む所としても賑わっていた。 江戸期を通じて加賀藩領で安宅村の元禄5年(1692)ころの家数220。天明5年(1785)では家数224・人数1,038。慶応2年(1866)の家数は336とある。村内には加賀藩の米蔵が置かれ、船問屋の倉庫が林立し千石船が活躍し盛況を極めた。 明治政府が各府県に作らせた地誌「皇国地誌」によると家数392・人数1,814とある。職業では船乗業228とあり、船乗りを生業にしている方が圧倒的だった。他には醤油業・油商・酒造業・肥料商・穀物商・鍛冶職など種々の職業が成立していた 明治の中期に漁業組合が成立し沿岸漁業が行われていたが不振であり、海運業も明治31年国鉄北陸線が開通したため衰退してしまった。大正9年の家数370・人数1,766と明治・大正を通じて殆ど横ばいであった。 町並には古い伝統的な様式の家屋が少なからず残っている。中2階建て平入り、切妻造りで袖壁を備えた板張りの家屋が多い。瓦は褐色か黒の桟瓦葺きであるが、雪の多い地方の特徴である厚みが薄い感じがする屋根が多く感じた。 石川県の歴史散歩 山川出版社 石川県の歴史散歩研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |