平安時代から安土・桃山時代にかけて、この地で勢力を伸ばしていた平泉寺の隆盛は室町期が全盛であった。一方16世紀後半、蓮如の教化をうけた一向衆徒は、越前門徒の応援を得て村岡山に立てこもり、ついに平泉寺を焼き滅ぼしてしまった。一向宗徒この勝ち戦いを祝って村岡山を「かち山」と呼んだことによる「勝山」の由来である。 慶長5年(1600)結城(松平)秀康が越前領主となり、勝山地方は家臣林長門定正が入った。その後林長門は失脚し、寛永元年(1624)秀康の六男松平直基が、寛永12年(1635)には同七男の松平直良が領主を継いだ。そして正保元年(1644)勝山領は幕府領となり、福井藩預地となって、勝山には瓦門番が置かれた。 元禄4年(1691)に小笠原貞信が勝山に転封され、以後廃藩まで勝山を支配した。小笠原貞信は入封と同時に城地に隣接して家中屋敷を建設したが、既にそのときには勝山城下には袋田町・後町・郡町という勝山三町が成立していた。 町人の数は元禄9年(1696)袋田町だけで家数344・人数1,265であった。元文3年(1738)の記録では寺院を除き町方・在方あわせて本百姓1,116軒、水呑1,435軒、人数11,444人。明治初年には家数2,716軒・人数13,918人とある。 勝山地方の産業は農業以外に殆ど見るべきものは無かったが、18世紀後半から煙草栽培が盛んとなり、明治に入ると急速に発展し、農家は品種改良、耕地の拡大に努め、仲買人や刻み業者が急増し、明治33年には勝山を含めた大野郡の製造業者は110人、職工900人にもなり、県下の七割を産出した。しかし明治37年煙草専売法が公布・実施され勝山の煙草刻み業者は全て廃業したが、農村の葉煙草栽培は専売局の指導の下でかえって安定した生産になった。 勝山の基幹産業は機業である。明治中期から手織機で内職程度に織られていたが、煙草刻み業者の廃業に伴う補償金を基に殆どの業者は機業に転向した。その後大正期、昭和戦前・戦後と絹羽二重、人造絹糸、アセテート、ナイロン、ポリエステルと織る素材は変化し、好不況を繰り返しながら今に綿々と続いている。 今 古い伝統的建物が建つ町並は本町通りに展開する。本町一丁目から二丁目・三丁目・4丁目にかけて古い伝統的様式の家屋が点在している。どの家も袖壁を備え、板葺き屋根の名残か勾配の緩い屋根に桟瓦がのっている。中には出桁造りの家屋があったり、本卯建を揚げた家屋もある。 中でも大きく重厚な商家建物は造り酒屋、呉服屋、旅館、味噌・醤油屋、茶屋、米屋など古い町並を構成する各種業種が揃って健在であった。 本町通りから一本九頭竜川寄りの道が後町通りで、幕末の勝山絵図には通りに面して職人の住居が多く描かれている。正覚寺の門前や寺の横町には遊女屋が多く居住し風紀が乱れ、藩の取締りを受けたようだ。そして寺の境内や九頭竜川の河原では、芝居・狂言・曲馬などの見世物興行が行われていたのが、近代の河原町歓楽街の基を造り、今でも当時の建物のまま歓楽街として残っている。 福井県の歴史散歩 山川出版社 福井県の歴史散歩編纂委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 福井県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
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