金沢市の町並み
長町・東山・小橋町・大手町・材木町・尾山町
地図


長町の武家屋敷の町並

本願寺派の門徒集団による金沢坊(金沢御堂俗に尾山御坊)が天文15年(1546)に完成した。金沢坊のあった位置は確定できないが、金沢城跡と兼六園にかけての丘陵地である。この金沢坊の成立によって、加賀一国の統治の中心は、守護所の置かれていた野市から金沢に移り、近隣の人々を集めて金沢寺内町が成立した。
金沢坊は門徒集団の信仰上の中核だけでなく、政治・経済の中心でもあり、醸造業を含む商工業の統制も行っていた。
この寺内町は、天正8年(1580)に織田信長軍団の柴田勝家の軍勢に攻められ、金沢坊は陥落してしまい、一世紀にわたる一向一揆の支配は終止符を打ったのである。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いに出兵した前田利家が、戦い敗れて秀吉に降り、加賀に進入する秀吉軍の先陣をつとめた。そして秀吉から戦功として、能登23万石の旧領を安堵されたのみならず、北加賀を加えられ、次いで天正13年(1585) 北陸平定なった秀吉から、越中の大部分を与えられ、ここに利家は加賀・能登・越中の三国にまたがる82万石余りの大大名になったのである。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに、2代利長は東軍に属して参戦し、その功によって加増され、ここに名実ともに加賀・能登・越中三国の総てが前田領となり、徳川幕府最大の120万石の大大名になったのである。以後加賀・能登の地は前田家の支配を受けること約300年続くのである。
加賀藩は120万石の大藩であるが外様大名であり、幕府にとっては油断できない存在であった。徹底した文化政策をとり、平和と文化に徹する姿勢を示すことによって幕府への忠誠を示したのである。
本格的は城下町の建設は17世紀前半に推進され、防衛施設の完備と家臣団の城下への移住のための侍屋敷の拡大、町人居住街区の再編成、寺社の城下への集結であった。
防衛施設の第一は、金沢城の北と南の天然の防衛線である、犀川と浅野川の二つの河川を結ぶ新たな堀の掘削で、これにより従来から有る堀とあわせて三重の堀が巡らされた。
次ぎは家臣団の城下への集住で、城域拡大のために家臣の屋敷を城外に移す作業である。城下の各地に重臣の屋敷地と重臣の家中集団が集住する家中町が形成された。いわゆる大藩のなかに重臣の家中が小藩のように存在するという構成であった。こうした侍屋敷の拡大・再編成にともなって、城の崖下に集中していた町人居住区も、北陸街道のどの主要な交通路沿いに移住させた。次いで寺院の城下への移転もすすめられた。
町方の戸数は、寛文4年(1664)に9878戸・55106人。宝永7年(1710)に12558戸・64987人。明治3年17222戸・56295人であった。明治4年には武士・寺社や奉公人も含んで総戸数24744戸・123363人と記録されている。
これは江戸・大坂・京都に次いで第4位の大都市で、都市としての規模も大きかった。だが日本海沿岸という地理的な気象条件のフェーン現象による大火が頻発し、そのたびに武家屋敷や町人・商人の住居区を移動させたり、道路を拡張したり、辰巳用水などの用水路を、城域から城下まで敷設したりの城郭及び市内改編・整備が進められた。
長町の武家屋敷群は大野庄用水に沿ってある。土塀の続く武家屋敷の町並みで、藩の重臣長氏や村井氏をはじめ、藩士の屋敷が並び、町家は一軒もなかった。
屋敷の構造は身分や禄高によって違うが、土塀をめぐらし、構えた門や長屋が今もかなり旧態をとどめている。
明治2年版籍奉還が行われると、藩知事と名をかえた旧藩主慶寧は城を退き、この長町の重臣長成連の屋敷を金沢藩庁にあてた。長町の屋敷はやがて廃藩置県によって金沢県庁となり、明治5年に本吉(現石川郡美川町)へ県庁を移すまで県政の中心となった。
町並み指数 60
参考文献
   石川県の歴史散歩  山川出版社  石川県の歴史散歩研究会  1996年
   角川日本地名大辞典  角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年
   東海・北陸小さな町・小さな旅  山と渓谷社  同社大阪支店  1998年


長町の武家屋敷の町並み

長町の大野庄用水

ひがし茶屋街

石川県立歴史博物館(旧陸軍第九師団司令部)

橋場町の町並み

水あめの俵屋
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