金沢市寺町台の町並
野町1丁目・野町3丁目・寺町5丁目・清川町・弥生1丁目
地図


旧鶴来道の左野町1丁目、右寺町5丁目の町並

 金沢市の寺町台は金沢市街の南西部、犀川左岸に位置する。
中世、本願寺一向宗門徒による金沢御堂が完成したのは天文15年(1546)。この金沢御堂を拠点に本願寺法王国とも云える加賀を統治し、金沢御堂を中心として、周辺に寺内町を形成したのが金沢の起源と云われ、金沢は北加賀の政治・経済の中心地となった。
しかし、天正8年(1580)、織田信長の家臣佐久間盛政によって金沢御堂は陥落し、盛政が居城とした。そして3年後の天正11年(1583)前田利家が入城した。それ以後明治2年の版籍奉還まで287年間、金沢は前田氏の城下町であった。
2代目利長の頃には120万石の巨大藩となっていて、城下町の建設・整備拡張が急務だった。そして5代藩主綱紀の時代の、17世紀後半には早くも現在の市街地中心部の原型となる城下町が完成し、江戸・大坂・京都に次ぐ大都市となっていた。
城下町建設に伴って、慶長期〜元和期(1596〜1624)から寺町台・小立野台・卯辰山山麓への寺院移転や建設が始まり、延宝期(1673〜81)には概ね寺院群の形成が完了したと考えられる。
これらの寺院群移転の理由としては、城下の防衛拠点としての軍事的役割・浄土真宗寺院への監視・鬼門除けなど考えられる。
当時の城下町の防衛拠点としての寺院群は一般的であるが、特に加賀や越前・越中など真宗宗徒の多い地域においては、浄土真宗寺院と門徒衆を隔離す目的が大きかったのではないかと思われる。その一方で城下町の急速な発展にともなって、既に門徒集団の中に城下に移り住んだ人も多くいたのみ見逃せない。
18世紀初頭の城下の1/4はこれらの真宗寺院であり、既に城下に分散していた。これに対して、城下町の成立とともに、創建もしくは再興された真宗以外の寺院の多くは、卯辰山山麓・市街地南部の野町寺町・市街地東部の小立野台地に集中させられている。真宗門徒の結束を恐れたのだろう。

さて、本題の寺町台寺院群の説明だが、この寺町台寺院群は金沢市内最大の寺院群である。
寺町台の寺院群や町並は前田家墓所へ通じる旧野田通りと白山麓に向かう旧鶴来道を主軸とした通り沿いの寺院や町屋から成っている。旧野田通りの寺院群は通りに面して巨大な建物を見せ、町屋が殆ど無いが、旧鶴来道の寺院群は、通りに町屋が建ち並び町並を形成し、その奥に寺院の建物が控えて建てられていて、通りには面していない。同じ寺院群でも二つの街道筋の様相が全く異なるのはどうしてだろうか。
寺町を訪ねたのですが、私は寺院には殆ど関心が無いので、町家や町並になります。旧鶴来道に面した町並は、切妻造り・平入・桟瓦葺きの町家で形成されていて、平屋・中2階建て・2階建てで、袖卯建・千本格子を残した家も散見できます。また、大型木造家屋の料亭山錦楼の3階建ての建物も見られます。旧鶴来道に沿った町並の中に遠慮がちに建てられた寺院の山門が見られるのはチョット珍しい光景です。
町並み指数 40
参考文献
   石川県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年
   角川日本地名大辞典  角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年


旧鶴来道の寺町5丁目の町並

旧鶴来道の寺町5丁目の町並

旧鶴来道の野町1丁目の町並

旧鶴来道の野町1丁目の町並

旧鶴来道の野町1丁目の町並

旧鶴来道の左野町1丁目、右寺町5丁目の町並

旧鶴来道の野町3丁目の今川酢造

旧鶴来道の野町3丁目の町並

旧鶴来道の野町3丁目の町並

旧鶴来道の右野町3丁目 左弥生1丁目の町並

旧野田通りの寺町5丁目の大寺院

旧野田通りの寺町5丁目の料理屋
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