大野川河口に位置する中世からの湊町。江戸時代以前の大野川は河北潟を流出したのち南西流を続け、宮腰(今の金石地区)辺りで犀川と合流し、氾濫原を形成しながら日本海に注いでいた。これを分離したのは3代藩主前田利常の時代の慶安年間(1648〜52)頃で、大野川を大野村・宮腰町の境を流れて日本海に注ぐようにした。しかし氾濫は繰り返され、松を植える等して流路の固定を試みたが上手く行かず、安永3年(1774)に新川掘削をしたのが、現在の流路である。 大野川の河口が度々移動することにより大野湊の位置がなかなか固定できず、犀川河口の宮腰湊が発展するのに比べ大野湊の発展は遅れた。 江戸時代を通じて、他国船の入津する湊としは発展しなかったが、湊が固定され船商売も始めたことにより次第に発展にむかった。こうした動きに対し湊の権利を欲しい侭にしていた、宮腰町は権利を阻害するものとして、寛文7年(1667)、元禄年中、享保2〜3年(1717〜18)、寛政4年(1792)などに大野湊の出津・入津船を制限するよう訴えている。 しかし大野湊の機能は認められ、享保3年(1718)には宮腰町の肝煎・馬肝煎・組合頭などが禁牢の刑に処せられている。 海運業の中心は能登・越中からの知行米や諸荷物を回船するなど問屋業も発達した。特に享保の争論で勝訴となった後は一層活発となり、寛政頃からは西廻り航路にも進出していった。 丸屋・川端屋・浅黄屋・根布屋・浜坂屋・室地屋・新保屋などが青森から赤間関(下関市)までを活動の場として活躍した。 寛政4年(1792)の家数266・人数1,188。外海船33艘、猟船29艘を有していた。 大野湊の発展を快く思わない宮腰町との確執で、大野湊の船主・船問屋らは町格を得ることによる権益保持を目的に町立て認可を藩に願い出て、安政3年(1856)に認められて、大野町が誕生し、宮腰町奉行所の支配下に置かれることとなる。そして慶応2年(1866)には宮腰町と大野町の長年の不和を解消するために両町の合併を強行した。 大野醤油は直江屋伊兵衛が元和年間(1615〜24)に藩主の命により、紀州湯浅で醸造学を学んで広めたという。江戸後期には大野醤油の名は広く知れ渡ったという。弘化・嘉永の頃には醤油醸造者は60軒にもなったという。販路は加越能一円だったが、最大の販路は金沢であった。 その後明治初期から衰退に向かい、味噌醤油業者は5軒とあるが、そのまま廃絶することなく現在に続いている。 文久元年(1861)の大野川絵図や翌年の大野町絵図によると、建物の殆どが板葺き屋根であるなど都市的景観を見せている。 今町並には伝統的な様式の建物が多く残っている。醤油醸造業者が町並に点在し、モロミの芳しい香りを放っていた。伝統的な様式の家屋は大型の物が多く、廻船問屋や船主の多い海運業の盛んな町だったことが伺える。 石川県の歴史散歩 山川出版社 石川県の歴史散歩研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
大野町4丁目の町並 |
大野町4丁目の町並 |
大野町4丁目の町並 |
大野町4丁目の町並 |
大野町5丁目の町並 |
大野町5丁目の町並 |
大野町1丁目の町並 |
大野町1丁目の町並 |
大野町1丁目の町並 |
大野町1丁目の町並 |