金沢市西茶屋街の町並み
野町2丁目西茶屋街
地図


野町2丁目西茶屋街の町並

 天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入城し、以後明治2年の版籍奉還まで287年間、金沢は前田氏の城下町であった。前田利家が羽柴秀吉から与えられた知行は40万石余りであったが、慶長5年(1600)2代藩主前田利長が119万石余の領知をもった。その大幅な加領により家臣団が急増し城下町は急激に膨張したと考えられる。
慶長10年(1605)利長の越中富山への隠居、利長の死亡による家臣の還住、3代利常の小松への隠居、富山藩・大聖寺藩の分知、利常の死去による家臣の還住などは、多数の家臣の転出・転入を伴い町並は変化を繰り返したと思われる。
町割りの実施は慶長16年(1611)侍屋敷割りを行い、元和2年(1616)に町方の検地をして寺院を寺町台地と卯辰山麓へ移した。寛永8年(1631)と同12年(1635)の大火を機に再び町割りを改め町屋を総構の外へ移した。辰巳用水を引いたのも寛永9年(1632)のことである。
外港宮腰は藩政初期から町として位置づけられていた。
金沢は江戸時代には加越能三ヶ国にわたる加賀藩百万石の城下町として、政治的・軍事的中心であり、武士と御用町人の住む強大な商工業都市であり、文化水準も高い文化都市でもあった。近代・現代でも北陸地域の中核的機能を保ち続けているが、明治前期・中期には著しく衰退に陥り、人口は明治20年代には10万人を割り、明治30年には81,352人まで減少してしまった。
しかし以後増加に転じ、大正7年には15万人、昭和18年には20万人を超え、昭和55年には417,684人になった。

さて、西茶屋街ですが、この辺りは江戸時代から野町と呼ばれている。町名は、かって金沢城下が拡大されて泉村の東方に広がる野地、泉野が町地になったとき泉野町と呼ばれたが、これを略して野町と呼んだとされる。慶長元年(1596)の家数は580余り。足軽屋敷・泉寺町・西の郭や犀川を越えて街の中心地に近く、人通りも多かった。文化8年(1811)には家数229とある。
文政3年(1820)石坂町辺りに遊郭が公許され、石坂新地・茶屋町と称された。文政6年(1823)の町奉行の記録には石坂新地とある。遊郭は「西」と通称され木戸を設けて武士と僧侶の出入りを禁止した。天保2年(1831)西遊郭が廃止になり、慶応3年(1867)西新地として再興され、「西の郭」とも言われた。
今、西茶屋街は有名な東茶屋街に較べて、規模も小さく片側にしか茶屋建築が建っていない。建築様式などは東茶屋街と同じようで、総2階建てで戸板をはめた茶屋の町並。中には京都祇園のようにスダレを下げた家も見られた。
ここも茶屋建築の建物ばかりが連続して並んでいる光景は見事でしたが、東茶屋街は写真を撮るのも苦労するほど人人で溢れていましたが、この西茶屋街は観光客は殆ど訪ねていなかった。
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参考文献
   石川県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年
   角川日本地名大辞典  角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年


野町2丁目西茶屋街の町並

野町2丁目西茶屋街の町並

野町2丁目西茶屋街の町並

野町2丁目西茶屋街の町並

野町2丁目西茶屋街の町並

野町2丁目西茶屋街の町並
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