金沢市金石町の町並み
金石西2丁目
地図


金石西2丁目の町並

 江戸初期の金石は宮腰村とよばれていた。寛永16年(1639)の記録には宮腰町とみえ、もうこの頃には町立てされていたと考えられる。寛永21年(1644)の検地にも宮腰町と記されている。
宮腰町は犀川河口右岸に位置し、日本海に面する中世以来の湊町。
江戸時代以前の犀川・大野川は当地付近で合流、一流れとなって日本海に注いでいた。この河川の分離が慶安年間(1648〜52)頃に行われたようで、この河川分離により新しい大野湊ができ、宮腰湊と次第に発展する大野湊との間で、江戸時代を通じてしばしば紛争があった。
宮腰が近世的な町としての実体を備えるのは、金沢城下の外港としての位置を与えられ、機能し始める寛永(1624〜44)期のことである。元和2年(1616)金沢ー宮腰間の道路を整備したり、元和6年(1620)には川を掘削して浅野川と結び、宮腰から城下へ川船を直接乗り入れるようにした。
寛永16年(1639)頃には宮腰には領国船・他国船が入港し、商人も各地から来ていた。また米・大豆・塩・材木などの商品が入津し、浜で取引が行われていたようだ。
家数・人数は延宝5年(1677)が1000軒、天和元年(1681)が1187・6149。貞亨元年(1684)が1149・5894、元禄3年(1690)が1260、文政6年(1823)には1306・4歳以上の人数5292、嘉永6年(1852)が1378、安政5年(1858)が1496・5008と家数は僅かづつ増えているが、人数は横ばいであった。
湊の発展は海運において領内緒湊随一の実力を有し、寛文7年(1667)宮腰湊が保有していた300石積以上の船数は25艘で1400石代2艘・1200石代2艘・1100石代3艘・900石代4艘などで、これらの船の大半は東北地方からの材木運搬に動員されていた。その他に大阪廻米の運搬、上方での購入物資の運搬などを担った。こうした海運力に支えられ、宮腰湊には大量の藩用・商用物資が入津し、それを陸揚げする人足や陸上の輸送に当たる馬借、物資を保管する倉庫なども林立していた。
隣の大野湊も大きく発展し、船の入津を巡り紛争が絶えなかった。大野村は郡奉行支配から宮腰町奉行支配に願い出て許可されて町の格を得て大野町となり、宮腰町と対等な位置になった。大野町は宮腰町の持つ材木積入独占権を崩そうと攻撃をかけた。これに対し宮腰町は反発し論争になったが、藩は是非を決することができず、慶応2年(1866)に両町の合併を強行に推し進めた結果町名が金石町となった。
今、町並を歩くと江戸時代の回船問屋や船主の館と言うような伝統的な様式の大型の家屋も見られるが、殆どは漁師町を思わせる家屋が多い。道路も真っ直ぐでなく、不規則な交差を繰り返す細い道で迷路のようだ。実際に歩いてみると海岸へ出て方向を確認せねばなかなか目的の所に近づけないようだ。切り妻の妻面を板張りにした家屋が多いのは、海岸からの冬の季節風に耐えるためだろうと思う。
町並み指数 40
参考文献
   石川県の歴史散歩  山川出版社  石川県の歴史散歩研究会  1996年
   角川日本地名大辞典  角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年


金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目にあった舟板塀

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並

金石西2丁目の町並
古い町並みへ戻る