西回り航路が開発される17世紀中頃までは、北国や東国の日本海側から京都や大坂へ運ばれる米、海産物などの荷物は小浜や敦賀に陸揚げされた後、陸路で今津や塩津、海津などの琵琶湖北西部の港に運ばれ、そこから船にて大津まで運び、再び陸路で京都・大坂に運ばれていた。熊川宿はその小浜と今津を結ぶ若狭街道の宿場であって、日本海諸藩の重要な物資輸送路であった。 しかし、河村瑞軒によって寛文12年(1672)、西回り航路が開発されてからは、北海道や東北日本海側の物資は日本海から下関を経由して瀬戸内海に入り大坂に運ばれたので、若狭街道を通る物資の量が減少したが、やはり日本海側と京都を結ぶ重要な交通路であった。 豊臣秀吉に重用された小浜城主 浅野長政は天正17年(1589)に熊川が軍事、交通上の要地であることから、保護繁栄策をとり諸役免除して、町奉行を置き宿場町としての発展の基礎を築いた。 関ケ原の戦いの後、小浜城主京極高次のとき熊川陣屋が設けられ、その後の小浜城主酒井氏のときに熊川奉行所が置かれた。蔵奉行所や関所(番所)が置かれたのも同時代と考えられる。 そして小浜湊に陸揚げされる北国からの輸送物を、京都や大坂へ運ぶ街道筋の宿場町として栄え、最盛期には 年間2万駄の通行があった。また、小浜港からは若狭の海産物が都に運ばれていて、特に18世紀後半から沢山の鯖が若狭の海で水揚げされ「鯖の道」として「鯖街道」と称されるようになった。 熊川宿の町並みは一筋道で、約1kmの両側に古い町家が建ち並ぶ。今津側より上の町、中の町、下の町で構成されていて、中の町と下の町の境には、桝型が置かれていた。これは交通と軍事の要衝であった熊川に城下町的構成を取り入れたものである。中の町は宿場の中心で問屋、旅篭、商家が多く、周辺部は農家が多く茶店、背負い、巡礼宿などを兼業していた。 小浜藩の町奉行所、蔵屋敷(蔵奉行所)、足軽長屋などは中の町に、関所(番所)は上の町の端にあった。 熊川宿の伝統的な家屋は、切り妻造り平入りまたは妻入り、中二階建て、塗籠壁、虫籠窓、格子、桟瓦葺(うわ薬をかけない若狭瓦)、袖壁で煙出し、バッタリも備わった商家もあった。平入りと妻入りが混じりあって町並みに変化が見らる。 屋号くらみやの萩野家は主屋、土蔵など問屋の形式を残している最も古い町家である。表には2ケ所今でも駒つなぎ環が付いていた。旧問屋で屋号を「菱屋」の勢馬家は、他の問屋と共に街道の繁栄をささえた旧家で、前川に面し大きな店構えで菱印のついた[のれん]のかかる通り庭、広い家屋敷にその面影を残していた。その他に屋号を高島屋(高源)の逸見源右衛門家などの商家があった。 街道の片側に用水路が流れている。用水路は天正年間(1573〜1592)熊川宿が設けられた頃に造られたものらしい。年中絶えない豊かな水は、かって生活用水、牛馬の飲料水、防火用水とされたが、今もなお様々に利用され、町並みに情緒をもたらし町並の景観に寄与している。 福井県の歴史散歩 山川出版社 福井県の歴史散歩編纂委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
中の町の町並み |
上の町の町並み |
中の町の町並み |
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中の町の町並み |
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