旧高松村は加賀国に属していたが、北の中沼村は能登国という加賀・能登の国境の村で、能登街道に沿った宿場町だった。江戸初期には外高松村とも記載されているが、寛文10年(1670)の村御印(三箇国高物成帳)では外高松村であるが、寛文8年(1668)の河北郡浜方組裁許申付状などには高松村とあり、加賀藩でも混用されていたようだ。 高松村は砂丘に近いため、飛砂の被害を受けることが多く、元和2年(1616)688石だったが、寛文10年(1670)363石、文政元年(1818)252石と激減している。これは砂丘の移動が最大の原因だが、集落も当地で有名な末森合戦以後に3回も移したという。 江戸期になり、砂丘の防砂のためネム苗や松苗が植えられ簀垣を巡らすなどの努力が続けられ、甘藷の試植えるが行われている。 元禄3年(1690)の家数199、寛政12年(1800)の百姓数164、天保(1830〜44)頃の百姓家数188・頭振家数171、人数1845。安政2年(1855)の記録では家数439・人数2854とある。 高松宿は北陸街道津幡宿から分岐する能登街道の最初の宿駅。寛文6年(1666)の算用場奉行の書上げによると、高松宿の馬数は54疋とされているが、天和元年(1681)には40疋と減少している。それ以後も40疋とされていたが、享和年間(1801〜04)などの書上げから推察すると、常備されていた馬数はもっと少なかったようだ。 また高松宿は幕府巡見使の御昼所とされ、村役人級の米屋左五郎・竹屋惣左衛門・米屋助四郎の3軒が本陣とされていた。当時旅籠商売二人、煮物商売二人がいた。 砂丘地のため思うように米作ができなかったので、漁業などが行われていた。その他瓦生産や素麺の生産も行われていた。 高松宿の南端には口銭徴収のための口銭場があり、その付近には数軒の茶屋があって口銭茶屋と呼ばれていた。今その口銭場跡とその周辺を整備して高松歴史公園として整備されている。古い町並はこの口銭場の高松歴史公園から北に延びて展開していた。 切り妻造り平入りの中2階建ての家屋がこの地の伝統的な家屋の一般的なもののようだ。真っ黒な桟瓦葺き、横板張り家屋が連なるなかなか見ごたえのある古い町並だった。中には千本格子を残した家もあり、宿場町だった当時の面影を感じられる町並であった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
高松の町並 |
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