加賀市橋立町の町並み  
橋立町
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橋立町の町並

  関が原の戦い後、南加賀を含め120万石の大大名となった前田氏は、寛永16年(163)三代藩主前田利常が隠居するとき、三男の利治に7万石を分け、支藩の大聖寺藩を設けたが、城は造らなかった。しかし大聖寺藩は経済的基礎も弱く、藩主も加賀藩からの養子が多く、全て本藩の干渉・保護を受けていた。
日本海側の物産を寛永16年(1639)ころから下関を経由して瀬戸内海を通って大坂に送るこの西廻り航路(北前船)が定着し、従来の敦賀・小浜から琵琶湖を経て大津、京都に送る廻送路がすたれた。その北前船が定着したのは1670〜1680年頃である。
日本海各港と大坂を結んだ航路を、遠く北海道(蝦夷地)に結んで「北前船航路」は確定した。北前船とは日本海側から下関をまわって、瀬戸内海に入ってくる船のことを「北前船」と呼んでいた。北前船は大坂で酒・そうめん・油・木綿・古着・煙草などを積み、瀬戸内各地の港で塩・紙・砂糖・竹・蝋など、日本海に廻ると鉄・米・わら製品・畳表・酒・米などを各地の港で積み込んで、蝦夷地の松前・函館・江差の問屋に卸したり、蝦夷地の各港で販売した。そして蝦夷地からは殆どが海産物で、ニシン粕・数の子・昆布・イワシ粕・鮭などで、これらは主として瀬戸内各港で売り捌いた。
加賀市では塩屋・瀬越・橋立の地区が北前船の三大基地だった。橋立湊には西出・久保・酒谷・黒田・西谷らの船主が活躍していて、寛政8年(1796)の記録では、橋立だけで船主42人、持ち船100隻を超えている。
大聖寺藩の所領は七万石であったが、歴代藩主は、江戸城での待遇をよくするため、10万石の大名を願った。文政4年(1821)幕府は10万石の高直しを認めた。普通でさえ窮乏していた藩財政は、以後いっそう苦しくなった。廃藩置県が実施される明治4年の借財は23万1787両余りに達していた。
大聖寺藩が富裕な塩屋・瀬越・橋立の船主たちに目をつけ、嘉永6年(1853)のぺリー来航をきっかけに、幕府は諸藩に海防を要請した。
大聖寺藩でも海防資金を塩屋・瀬越・橋立の船主に要請している。このため、橋立の久保彦兵衛が参千両、西出孫左衛門が弐千両、他の橋立の船主が参千弐百両を上納している。また、弘化2年(1845)藩の財政整理に際して橋立の久保彦兵衛が一万両の御用金を納めているなど、多くの塩屋・瀬越・橋立の船主が御用金を上納した。
橋立には北前船で巨万の富を築いた船主達の豪勢な建物が建ち並んでいた。内部は総てがベンガラに漆塗になっていたり、庭石は各地の銘石を北前船で運んだもので、現在はほとんどが天然記念物の指定を受けたものばかりだ。公開されている「北前船の里資料館」も「蔵六園」も奥座敷の裏側に、贅の限りを尽くした藩主の御成部屋が造られていて、ここに藩主が借金に来ていたと思うと、船主たちの財力のすごさを思い知らされる。
町並み指数 50
   参考文献
  石川県の歴史散歩  山川出版社  石川県の歴史散歩研究会  1996年
  北前船とそのふる里 北前船の里資料館(加賀市教育委員会) 牧野隆信 平成7年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年


北前船の里資料館

橋立町の町並
 
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瀬越の大家家

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