加賀市大聖寺は石川県の南西端に位置し、中世は白山五院の一つ大聖寺の門前町として栄え、近世には加賀藩支藩大聖寺藩の城下町として発展した。 江戸はじめは加賀藩領、寛永16年(1639)からは大聖寺藩の城下町。 天正10年(1582)の賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家に代わって、丹羽長秀が加賀・越前に入り、その武将溝口秀勝が大聖寺4万4000石を支配した。その後小早川秀秋が越前一国と江沼・能美2郡に封ぜられたが入部せず、家老の山口宗永が慶長3年(1598)に大聖寺7万石を支配した。しかし間もなく関ヶ原の戦いで、山口宗永は石田三成に属したため、家康方に参加した前田利長の攻撃を受け、大聖寺城と共に滅亡してしまった。以後前田領となり前田家は城代をおいて江沼郡を支配した。 寛永16年(1639)加賀藩前田家3代藩主利常の三子利治を大聖寺に封じ7万石の支藩とした。ただ、城は一国一城令により造らず、藩邸を現在の大聖寺八間道の錦城小学校の位置に築いていた。以来14代の間転封も改易もなく明治の廃藩置県に至った。 大聖寺の町の基礎ができるのは天正11年(1583)溝口秀勝の頃からと考えられているが、本格的な建設は大聖寺藩成立以後と見られる。藩主利治の藩邸の東に城下町が形成された。藩邸の正面である東側(八間道)や南側(馬場)は家老や重臣たちの屋敷で固め、上級武士は仲町や鷹匠町など水害の受け難い場所が選ばれ、足軽や徒士は鉄砲町・金子・木呂場・弓町など町外れに配された。そして町人町は城下中央を南西から北東に抜ける北陸街道沿いに発展したが、藩邸前にある本町・京町・中町はその中心で、特に本町には旅宿が多かった。 大聖寺藩は経済的な基盤も弱く、藩主も加賀藩からの養子が多く、全てに本藩の干渉・保護を受けていて、有力町人への御用金賦課、家中の半知借上でやっと切り抜ける状態だった。有力商人には板屋・吉崎屋・吉田屋・福田屋・米屋などがあり、藩はしばしば彼らの財力に頼って財政危機をくぐり抜けていた。 現在の大聖寺の町並は碁盤目状に道路が走っているが、三叉路も多く城下町時代の町割りが比較的良く残っている。一階の軒先屋根に板張りを残した家も見られ、袖壁の形状など北陸地方独特の家屋形態の家々が連なる。 只14年〜15年前に訪ねた時よりも、伝統的な形態の家屋の連なりが少なくなっていたのは、仕方ないとは言え寂しい思いがした探訪だった。 石川県の歴史散歩 山川出版社 石川県の歴史散歩研究会 1996年 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
大聖寺山田町の町並 |
大聖寺山田町の町並 |
大聖寺山田町の町並 |
大聖寺京町の町並 |
大聖寺京町の町並 |
大聖寺本町の町並 |
大聖寺本町の町並 |
大聖寺本町の町並 |
大聖寺本町の町並 |
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