城端町の町並 
新町・東上町・東下町・大工町・東町・西町
地図


東上町の町並
  城端は礪波平野の東南部の山裾に近い所で、山田川と池川に挟まれた舌状段丘に発達した町である。
土豪荒木大膳の居城であった城端城(別名城鼻城)を、元亀3年(1572)に善徳寺に寄進した。そして、そこに移ったので境内が城跡だと云われている。
開町は翌年の天正元年(1573)とされ、浄土真宗大谷派善徳寺の門前町として、また、市場町として開けた市街地である。天正年間(1573〜92)には六斎市が開かれ、慶長9年(1604)には九斎市となり、この門前町は繁栄した。
江戸時代を通じて加賀藩領で、寛永14年(1637)からは今石動町奉行の支配下に置かれた。元和5年(1619)の家数は147戸であるが、この数は年貢負担者の数と思われる。元禄6年()の町家は677軒・人数3793人、また、明治5年の戸数888軒・人数3963人であった。
城端の町並は善徳寺を中心に、西上町・東上町・西下町・東下町・大工町・新町・野下町・出丸町・西新田町・東新田町が慶安年間(1648〜52)までに成立している。
この町の主産業は絹であった。城端の絹織物製造は、善徳寺の寺内町・門前町として開町して間もない頃からすでに始まったと云われている。元禄頃が最も盛んで、元禄6年(1693)の「組中人々手前品々覚書帳」によると、総戸数689軒のうち、絹に関係した職業に就いている者は375軒を数え、町民の半数以上が絹の生産・販売にあたっていた。
城端の絹は加賀絹の名で、主として京都へ販売された。加賀藩では小松絹と共に城端の絹生産を重視し、保護と統制の政策をとりつづけた。絹は好不況の影響が大きく、元禄頃の半分程度で推移し幕末まで続いた。
そして明治・大正・昭和と続き昭和10年が城端の絹織物生産のピークであった。
城端の繁栄をもたらしたのはこの絹産業の他に、五箇山貸商人がいた。
五箇山貸商人とは、城端と五箇山との間には高峻な山で遮られて交通が至難であった。五箇山では煙硝・生糸・紙などが特産品として製造されたが、食糧をはじめ生活必需物資の多くを城端、井波に依存していた。冬季には半年にわたり交通が途絶するので、生活物資購入を産物売却を条件に、城端・井波の商人から前借し、商人は財を成して行った。
これら絹商人や・五箇山貸商人などの残した町並があったのであるが、今では、古い町並は、東上町と東下町に少し残っている位で、町中を国道304号線が通り、国道と善徳寺門前の拡幅工事により町並の殆どが取り壊され、そこには、古い町並に仕立てた新築の建物が連なっていた。町並保存の一つと思われるかも知れないが、平成の町並は古い町並とは異質のものだ。
善徳寺は火災にあったことがないので、宝物が豊富であり、、城端別院善徳寺文章・善徳寺宝物(ともに県文化財)などが保存され、多くの宝物は宝物収蔵館で公開されている。
町並指数  30
参考文献
  富山県の歴史散歩  山川出版社  富山県歴史散歩研究会  1993年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年
  東海・北陸小さな町・小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1998年

新町の町並

新町の国道304号線沿いの町並
国道拡幅工事により建替えられた新築の古い町並

大工町の町並(右側は曳山会館蔵回廊)

善徳寺前の西町通り(国道304号線)沿いの町並
国道拡幅工事により建替えられた新築の古い町並

東下町の町並

東新田の坂の町並
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