屋敷林(かいにゅう)に囲まれた農家が散在する砺波平野の散居村とチューリップの里の風景は独特だ。井波町はそんな砺波平野の南の端、これから八乙女山にかかるという山麓に広がる、信仰と木彫りの里として知られているのどかな町だ。 井波町は瑞泉寺の門前町として栄え、600余年の歴史を有している。天正9年(1581)に織田信長配下の佐々成政によってこの地は奪われ、瑞泉寺と井波町家はことごとく焼き払われてしまった。その後加賀初代藩主前田利家の勧めで瑞泉寺8代准秀が井波に帰り、瑞泉寺復興に乗り出し、万治3年(1660)本堂が再建された。 井波彫刻の歴史は瑞泉寺の歴史でもあった。その時の堂棟建築の技法が井波彫刻の始まりと言われている。明徳元年(1390)の創建以来、幾度かの被災による本堂再建のため、京都・金沢から優れた棟梁が派遣された。特に、佐々成政による瑞泉寺と井波町家の焼き払い後、これらが再建されたが、そのときの堂棟建築の技法が井波彫刻の始まりと云われている。 宝暦年間(1751〜64)以降の再建では、井波の大工十人衆が活躍し、これらの棟梁が彫刻師として各地にでむき、井波彫刻の名を高めた。番匠屋9代目田村七左衛門は井波彫刻の元祖といわれる。今日の隆盛の始まりは、明治44年から大正7年までの太子堂再建からである。 瑞泉寺山門は豪壮で重量感のあるもので、見るものを威圧する。この山門建築は天明5年(1785)から本山(東本願寺)から派遣された大工によりはじめられたが、途中から地元の井波大工松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)に棟上げされた瑞泉寺では最も古い建物で、総ケヤキの重層伽藍入り母屋造りである。 本堂は45m四方で、高さは28mあり北陸最大の木造建築であり、隣には井波彫刻の粋を集めて建てられた太子堂が優雅な姿を見せている。 瑞泉寺の山門から続く石畳のゆるやかな坂道の両側には、民芸品や木彫りの店などの古い伝統的な町家が連なる。どの民家も大型の商家で切り妻造り、中2階建、平入り、1階は千本格子、2階は白壁の真壁造り、袖壁、桟瓦葺、軒庇は板葺などであった。高岡の金屋町などの建築様式と同じようだった。この辺りの伝統的な町家は、一般に屋根の部分が直線的で太い登梁の構造の割に軽い印象を受ける。これは北陸や飛騨では雪が多く降るため、西日本や太平洋側に比べて瓦への対応が遅れたためのようだ。今でも板葺きの上に瓦を載せただけという感じだ。 石畳の坂道に木彫の店が多くあり、木を刻むノミの音が、あちこちから聞こえてくる。店の表で大きなクスの木に、ものも言わずに彫物をされてて緊張感がみなぎっていた。 富山県の歴史散歩 山川出版社 富山県歴史散歩研究会 1993年 歴史の町並みを歩 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支店 1998年 |
瑞泉寺山門前の町並 |
瑞泉寺門前町 |
瑞泉寺門前町 |
瑞泉寺門前前 |
瑞泉寺門前町 |
瑞泉寺門前町 |