庄西町一丁目は小矢部川と庄川に挟まれた河口部の最先端の町。地図で見ると今にも海に沈んでしまいそうに感じる。 江戸時代は六渡寺(ろくどうじ)村といい富山藩領であった。小矢部川河口には六渡寺湊があり、北前船の拠点とされ、小矢部川対岸の伏木と結ぶ渡しも置かれ、水陸交通の結節点として栄えた。 また、六渡寺湊から小矢部川をさかのぼり、砺波、今石動方面に通じるに舟運が開かれていて、慶長14年(1609)前田利長が高岡城を構築した時にも資材運搬に利用された。 又、能登方面の物資の多くは六渡寺湊で中継して内陸部に運ばれた。 六渡寺湊は廻米などに利用され、日本海を航行する渡海船が大型化し、大坂登米・江戸登米を中心とする外海船の湊となり繁栄していた。文化期から天保期頃(1804〜44)になると黄金期を迎え、幕末から明治10年頃まで、六渡寺村に所属する渡海船は300艘もあった。 家数は天保4年(1833)183、安政6年(1859)236。そして明治2年には255戸と人数1,032人であった。 明治35年庄川の大掘削工事があり、家屋が75戸移転、280反の土地が買い上げられて、庄川の河口が広げられた。 この町並を訪ねるために車を走らせていると、防潮堤と工場群ばかりでこんなところに古い町並みがあるのかと不安になってくる。そして突然現れた町並み。安心するやら、こんな所に人が住めるのと不安も付きまとう。 町並みを形成している伝統的な様式の建物は比較的中小規模の商家建物。豪商と言われるような建物が無かったように思う。切妻造り平入りで、妻側は板貼りになっていて、この地方に多い2階部分が張り出して袖壁を備え、真壁造りで漆喰を見せている建物が無かった。 海のすぐ近くで、冬の季節風に対応した建て方だろうと思う。とにかくこの町並は突然現れる意外性のある町並みである。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
庄西町1丁目の町並 |
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庄西町1丁目の町並 |
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