射水市港町は庄川の河口右岸海岸沿いに広がる放生津の一番西端に位置し、江戸時代には古新町と言われていた所。 放生津は南側を東西に内川(東内川・西内川)が流れ、その東内川と西内川が合流して富山湾に注ぐところを湊口といい、同地を境にして東放生津と西放生津(古新町)に分れる。 町内を東西に浜往来が通り、中世から政治都市・港湾都市として繁栄し、近世には廻船業と漁業で栄えた。 浜往来に沿って西から古新町があり、湊口を越えて奈呉町・中町・山王町・四十物町・東町と並んでいた。寛文2年(1662)に蔵宿所に指定され、寛延元年(1748)には蔵宿4軒を数えた。享和3年(1803)に御蔵も置かれ、射水平野の年貢米の大部分が集まっていたという。 主要な産業は廻船業で、文政元年(1818)には渡海船52艘・沖通船20艘があった。漁業も盛んで文政元年(1818)の漁船数は116艘。天保15年(1844)には120艘を数えた。 家数・人数などは元禄3年(1690)では家数945。寛保2年(1742)には百姓616・頭振674の合計1,280。安永7年(1778)では1,310。文政12年(1829)の家数は1,616。安政5年(1858)では1,792・人数7,555であった。 古新町にも浜往来が通り、慶安2年(1649)の放生津新町の町立て以前は浜新町・西の浜町と呼ばれていたが、寛文頃(1661〜73)から古新町と呼ばれるようになった。 文政12年(1829)家数246とある。 伝統的な様式と言えるほど古い家屋は残っておならないが、それでも内川の北側に古い町並みが続く。間口が狭い切妻造り平入りで、袖壁が備わった2階建てが連なっている。漁師町なんだろう。 保存しなければならないような重厚な家屋は見なかったが、不思議に統一感のある町並みに見えた。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
港町の町並 |
港町の町並 |
港町の町並 |
港町の町並 |
港町の町並 |
港町の町並 |