富山市と高岡市の間にある新湊市小杉地区は平成5年の平成の大合併で新湊市になった地域で旧は小杉町であった。 この地には江戸時代初期には、北陸街道の沿って西に小杉三ヶ(さんが)村・東の下条川右岸(一部は左岸も含む)に戸破村があった。 明暦〜万治(1655〜1661)にかけて、戸破村と小杉三ヶ村の村地が割かれて町並みが造られた。最初は小杉今町と言ったが、寛文2年(1662)北陸街道の宿駅に指定され、小杉新町を言うようになった。以後宿場町・在郷町として発展した。 万治4年(1661)富山藩が加賀藩から分れ成立したのをきっかけに、富山を経由しない街道整備が行われて小杉新町が宿に指定されたもの。 それによって北陸街道は、今石動―立野ー高岡ー小杉ー下村ー東岩瀬ー滑川の経路が新たな北陸街道になった。 今回訪ねたのは、下条川の左岸戸破中町から現小杉高等学校の少し手前、小杉三ヶ上新町の旧北陸街道の町並み約1km強の距離である。 小杉新町の市場開設は延宝2年(1674)に認められ、毎月2・5・8の九斎市であった。 元禄3年(1690)の家数は260となり、寛保2年(1742)には百姓家数158・頭振家数(無高百姓・水呑百姓)253の合計411を数えるまでになった。 街道に臨んで旅籠屋をはじめとして、質屋・醤油醸造・売薬業・八百屋・豆腐屋・米屋など40種を越える諸職業が存在した。 幕末の百姓数は182・頭振家数267の合計449とある。 小杉三ヶ村は寛保2年(1742)の百姓家数22・頭振家数41の合計63。天保4年(1833)の家数70とある。弘化4年(1847)には売薬4軒があった。 今、古い町並みは旧北陸街道に沿った小杉三ヶ地区に僅かに伝統的な様式の家屋が残っている程度で、小杉新町だった辺りは建て替えが進み、古い町並みを形成する家屋が殆ど見られなかった。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
三ヶ常盤町の町並み |
三ヶ本中町の町並 |
三ヶ本中町の町並 |
三ヶ本中町の町並 |
三ヶ本中町の町並 |
三ヶ諏訪町の町並み |