江戸期の明神新村は今の堀岡明神新、堀岡新村は堀岡、新明神村は堀岡新明神である。 明神新村・堀岡新村・新明神村は共に、富山湾の奥まった低湿地の中央にある放生津潟(現富山新港)の北辺に位置し、浜往来沿いにできた街で、古くから漁業を中心とした集落であった。江戸期は共に加賀藩領で終始した。 明神新村から歴史を見て行こう。竹脇家二代安右衛門の明神野の新開によって元禄3年(1690)に村立てされたという。三箇国高物成帳は天和元年(1681)の新開として、草高159石を記載。寛保2年(1743)の草高164石、家数は百姓1、頭振12。天保4年(1833)の家数35とある。 堀岡新村は承応3年(1654)に明神野を新開して村立された。寛文10年(1670)の村御印では草高112石、寛保2年(1742)の草高459石余、百姓20、頭振89。天保4年(1833)の家数223とあり、富山湾での漁業が盛んで、明和6年(1769)当時、鰤網2統・鰯網15統・引き網上下12統、猟船30艘を所有し、富山や飛騨に出荷されていた。 新明神村は寛永2年(1625)に村立てされたという。明暦2年(1656)の村御印留では草高42石、寛文10年(1670)の村御印の草高24石。安永7年(1778)の高22石、百姓12・頭振17。文化14年(1817)の高26石、家数45、渡海船3・いくり船4・春網4統・夏網6統・秋網1統・曳網3統・開作船6を持つ漁業を主体とした村。天保4年(1833)の家数54。 明神新村・堀岡新村・新明神村の3ヶ村とも江戸期・明治期を通じて漁業を主体とした農漁村であり、廻船業も行われていた。この地が大きく変貌したのは、昭和43年に完成した放生津潟を改修して出来た富山新港である。放生津潟の浚渫土砂により一部を埋め立て、工業用地を確保し、大型船の入港を可能にして、昭和末年までに88社の進出を見た。 この地域を歩くと、漁村だった当時の名残が色濃く残り、今でも漁村の様相だ。北前船も出入りしていたとのことだが、港町としての商家建物は無く、漁村そのものの集落風景であった。でも今は漁業者は少なく工業団地に勤めるサラリーマンが多い住宅地になっていた。 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年g 村角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和54年 |
堀岡の町並 |
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堀岡明神新の町並 |
堀岡明神新の町並 |
堀岡明神新の町並 |
堀岡新明神の町並 |