射水市大門町並
大門辺り (大門・大門新・二口)
地図


大門辺りの町並

 射水市大門は庄川下流右岸に位置する。この地域は大門・大門新・二口と複雑に入り混じっているので大門辺りと記載する。
江戸期は加賀藩領。明暦2年(1656)の村御印では村高179石余、寛文4年(1664)村高194石余。明和8年(1771)の書上げによると村高167石余、家数42。
中世から近世初頭にかけては倶利伽羅―戸出―中田―水戸田―黒河と丘陵沿いに走り富山に至る街道が当地方東西路の主要道であったが、慶長2年(1597)前田利家が富山に移ったことにより今石動―守山―富山の経路が整備された。
この新しい北陸街道が整備されていく過程にあった承応2年(1653)大門村の村地を割いて大門新町が町立てされた。寛文初年(1661〜73)に当地を通る道が加賀藩により新しく北陸街道に公定され、新町地先の庄川渡河点には寛文6年(1666)大橋が架橋された。これ以降大門新町は交通の要衝として、庄川舟運の拠点として賑わって行った。当地は町立て以来無高地であったので、どんな商売もできたのでこれまでの魚商の他、油の製造販売、他国での売薬、川湊での木材の川下げ、藏米の川下げなどが行われ大いに賑わった。
大門新町の寛保2年(1742)の家数167。天保4年(1833)の家数223。 
今回訪ねて掲載した写真の大部分は大門新の写真で、江戸期は大門新町と呼ばれて、新しく作られた北陸街道の整備の過程で町立てされたところ。これと云う大型の家屋や豪邸などは見かけなかったが、在郷町の町場として発展していた頃の名残がそのまま残った町並であった。
切妻造り2階建て平入の家屋が軒を接してびっちりと建ち並ぶ光景は、大都会の下町と云う感じそのものであった。思うに町立てされて割り当てられた敷地の間口が狭かったのだろ。当時のままの町割りが残っているものと思う。
町並み指数 30
参考文献
  富山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1994年
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和54年


大門辺りの町並

大門辺りの町並

大門辺りの町並

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