今庄は日野川上流、山間の盆地で、東・南・西の三方を山々に遮られ、北方だけが開けた県内屈指の豪雪地帯である。 国道365号線(別名北国街道又は東近江路)は天正6年(1578)、北の庄(現福井市)城主柴田勝家が信長の居城である安土城参勤のため、栃の木峠を通る道の道幅を広げ改修したものである。 北陸と京都を結ぶ道は、古代には万葉の道で「山中峠越え」であったが、平安初期には「木ノ芽峠越え」(西近江路)が開削され、そして戦国時代には前述の北国街道が整備された。以降、京都より北陸に向かうには、木ノ芽峠越えの西近江路か、栃の木峠越えの北国街道を通るのであるが、これらの道は今庄で合流し、今庄は北陸への玄関口にある宿場として多いに発展した。 今庄宿が形成され始めたのは、中世に入ってからで、江戸時代になると北国街道は幹線道路として往来が頻繁となり、今庄は宿場として完全な形を整えるようになった。江戸時代前期の天和3年(1683)で240軒、幕末の天保年間(1830〜1844)の記録では戸数290軒、人口1300余人で、旅篭屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒などで、他に問屋3軒や伝馬所、高札場などがあった。 今庄宿は南から北に上町・観音町・仲町・古町・新町と西側に西町があって、約1000mにわたって家屋が並んでいた。間口が狭く奥行きの深い、町屋敷特有の短冊型の屋敷地が街道に沿って並んでいた。間口4間(約7.2m)から5間(9m)、奥行き20間(36m)前後が一般的であった。 そのなかで仲町に規模の大きな家が多く、ここには本陣、脇本陣をはじめ、問屋が集中しており、高札場も近くにあり、宿場の核をなしていた。本陣の後藤家は間口10間(18m)・奥行き37間(66.6m)もあり、14〜15の部屋をもつ大邸宅であった。宿の中心は仲町で、道幅も周辺部の2〜3間(3.6〜5.4m)に対し、約5間(9m)に広げられている。 宿場の街道は小さな屈曲を繰り返しながら、緩いカーブを描いて通り、古町と新町の間で枡型に屈折し、遠見遮断の道になっていた。町並みは切り妻造り、二階建て、中二階建て、平入り、袖壁、格子、大戸があり本卯建の上がった家もある。ただこの町並みの伝統的な家屋では、屋根の構造が少し変わっていて、屋根を支えている太い梁が軒先まで出ている登梁の構造で、雪の重みに耐えられるように作られていて、力強さを感じる建て方である。 今庄宿とは異なるが、同じ北国街道の今庄宿の次ぎの宿場板取宿について。 栃の木峠越えで峠を北に下りたところに板取宿がある。慶長5年(1600)徳川家康により結城秀康が越前に封ぜられると、越前、近江の国境である栃の木峠下の板取を最も重要視し、関所としての口留番所を置き、出女、入鉄砲を警戒し、往還の旅人を取り締まった。 板取宿には江戸時代末期から明治中期に建てられた家屋が6〜7戸ばかり残っている。その内修復されきれいになっている「茅葺妻入兜造り型民家」は2戸、「茅葺妻入入り母屋造りの民家」が2戸あったが、瓦葺の家も妻入りである。集落の家並みは妻入りに統一され、妻側の茅葺の屋根のすそを切り上げて2階の採光・通風にあてた兜造りで、軒桁が美しく飾られている。 幕末頃の板取宿は上板取・下板取あわせて旅篭屋7戸、茶屋3戸、問屋3戸あり、全部で53戸、300人であり、明治11年でも56戸、262人とあまり変わっていない。しかし明治19年の敦賀〜武生間の海岸道路(現国道8号線)の開通、明治29年の北陸線敦賀〜森田(福井)の開通など、北陸主幹線の変更で往年の繁栄から遠ざかった。昭和50年代に全戸県内に移住して、無住の集落になった。殆どの家は生活用品を一部残して無住のようであるが、一軒だけ生活されている家があった。 福井県の歴史散歩 山川出版社 福井県の歴史散歩編纂委員会 1995年 今庄の歴史探訪 今庄町 山本勝士 平成7年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
今庄の町並み |
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板取宿 | 板取宿 |
木の芽峠の茶屋前川家 |