今立町粟田部の町並み 
粟田部・定友
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粟田部の町並み
 今立町は越前和紙の里として知られているが、今回訪ねたのは粟田部で武生盆地の孤立丘陵行司ヶ岳(三里山)東南麓の在郷町で、東方に放射状に連なる月尾谷・水間谷・服部谷・及び河和田谷(現鯖江市)の村々や池田郷(現池田町)の物資の集散地、商工業の中心地として発達した。
粟田部村の江戸時代は福井藩領で、家数は元文5年(1740)333、文化6年(1809)439と大きく増加しているが、天保飢饉の影も大きく、天保9年(1838)の御廻国様御泊脇亭主覚記によると、家数370・人数1,458と激減している。そして安政6年(1859)には537と家数が大幅に増大し、商工業の発達と賑わいを伺え、町数も22町名が書かれている。
商家は二日市・本町・舟橋・佐山を中心に並んでいて、大工鍛冶の集住する地域もあり、生糸商・蚊帳原料の麻紐を扱う商家も多かった。
明治期に入っても、物資流通の拠点として発展し、明治17年の輸出入物品取調表によると、移出品として、蚊帳・生糸・板・漆鎌・下駄甲などがあり、送り先は近江・福井・京阪・東京などがあった。移入品としては大阪からの呉服・太物・古着・洋反物など、坂井港から石油・砂糖・塩など、尾張からの綿、近江・尾張からの陶器、松岡からの鍋などがあった。
大正8年の保健衛生調査報告によると、住宅は全て木造で、平屋93戸・2階建て547戸、屋根は瓦葺き約半数、杉皮葺き約3分の1、その他は板葺き・藁葺きなどである。
今立町は越前和紙の里として知られている。それは「五箇」(ごか)といわれる大滝村・岩本村・不老村・新在家村・定友村での越前和紙生産によるもので、今回訪ねた粟田部では和紙生産はなかったものの、それらの地域も含めた広大な地域の物資集散地として発達していた町である。
町並は平入りの連なった地域と、妻入りの連なった地域があったり、また二つが混在していたりしてバラエティに富んだ町並の景観である。中には妻入りに庇が大きく張り出した「かぐら建て」という建てかたの家も見受けられたり、袖壁が大きく張り出した平入りの家屋も多く見られた。
雪国独特で太い大きな梁が用いられ、それが外部からも見られる構造になっていて、冬季の雪対策の大変さが滲み出ている。
元々は和紙の里を訪ねたのだが、和紙の里へ行く前に在郷町粟田部で終わってしまったので次回の今立町訪問時には和紙の里「五箇」を訪ねねばなるまい。     
町並み指数 60
参考文献
   福井県の歴史散歩  山川出版社  福井県の歴史散歩編纂委員会  1995年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   福井県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年   

粟田部の町並み

粟田部の町並み

粟田部の町並み

粟田部の町並み

粟田部の町並み

粟田部の町並み

定友の町並み和紙問屋さん

定友の町並み
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