今立町五箇の町並み 
定友・新在家・岩本・大滝・不老
地図


大滝の町並
  五箇の緒村(大滝・岩本・不老・新在家・定友)は大滝神社の神郷として、室町時代より製紙業を中心に発達し、近世には越前和紙の産地として全国に知られていた。
肌なめらかで書きやすく、紙質引しまって耐久力があり、紙の王といわれる「鳥の子」紙の中にあって越前鳥の子が最上であると云われた。
安永4年(1775)には五箇で246軒という多くの紙漉き業者がおり、盛んに紙を漉いていた。
大滝84軒、不老40軒、岩本48軒、新在家26軒、定友48軒と云う数字が残り、紙の仲買人も大滝6人、不老4人、岩本51人、新在家9人、定友10人の合計80人もいた。
五箇の中でも大滝村は、室町時代から江戸時代にも歴代藩主の保護のもとに和紙生産の中心として発展した。大滝村の三田村家は越前和紙の成立・発展に深く関与した家で、諸藩領主より奉書紙職を安堵されていた。
福井藩御用紙の奉書・鳥の子紙を漉くのを御紙屋と呼んだが、三田村家はその筆頭であり、また毎年幕府御用紙は五箇では三田村家のみが担当し納めていた。
五箇の江戸時代は全て福井藩領で、大滝村の寛保2年(1742)の家数は94軒・人数435人。岩本村の天保9年(1838)の家数65軒・人数295人。不老村の寛政元年(1789)の家数39軒・246人、安政4年(1857)の家数75軒・人数371人。新在家村の寛政元年(1789)家数46軒・人数140人、天保9年(1838)の家数46軒・人数194人。定友村の天保9年(1838)の家数52軒・人数222人、慶応3年(1867)の家数99軒・人数392人。
江戸中期以降になると、商品経済が発達し、五箇の紙漉きも繁栄した。明治維新政府からは太政官札(各藩が勝手に発行していた藩札の統合と、外国へ銀貨が流出するのを防ぐための統一紙幣)の抄造を命じられたり、一流画家の愛用した大滝紙や大徳紙などを造り、大正時代には江戸期の紙に改良が加えられていった。昭和に入り、機械漉きも少しずつ増加し、大型の襖紙も増加した。
今全国の和紙生産地の大半が消えかかったり、規模が小さくなっていくなかで、五箇の和紙生産は力強く生き残っている。福井県和紙工業協同組合の統計によると、手漉き22・機械漉き50・加工15・兼業4の合計91の事業所があり、約750人が紙造りに励んでいる。
集落内には本卯建のあがった大きな家が点在する。ここでは街道筋の商家や宿場町の旅籠の建て方でなく、農村集落だったのだろう。もともと和紙生産農家と云っても、農業の副業で和紙を漉いていたのだから、一部の問屋以外は農家だった訳だ。
本卯建を上げた大きく重厚な家は岩本・新在家に多く、かっての紙問屋だった家で、今でも紙を扱う商売をされている家もあった。この地方の卯建を上げた家の多くは妻入りになっているが、家の構造が大変複雑で、卯建の建物が曲り家であったり、軒庇が大きくなっていたりと説明できないような建て方だ。
大滝では、今でも和紙生産工場が多くあり、古い町並のなかで活発な和紙生産活動がなされていた。    
町並み指数 50
参考文献
   福井県の歴史散歩  山川出版社  福井県の歴史散歩編纂委員会  1995年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   福井県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年   

定友の町並

新在家の民家

新在家の民家

岩本の民家

岩本の民家

不老の民家
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