氷見市中央町の町並み
中央町
地図


中央町の町並

 氷見市中央町は能登半島の付け根、県北西部に位置している。
戦国期、上杉謙信の能登攻略により、氷見地方は占領されたが、天正6年(1578)上杉謙信は急死し、代わって織田信長の勢力が伸びてきた。織田氏勢力の先鋒は佐々成政で、成政によって越中は統轄されることになったが、織田信長の急死後、成政は豊臣秀吉に反抗してその征伐をうけ、天正15年(1587)肥後に転封され、代わって前田氏が越中を領有することとなり、明治4年の廃藩置県まで氷見地方は加賀藩前田氏の領有となった。
氷見町は交通の要衝であり、氷見庄内100ヶ村といわれる村々の年貢米をはじめとする物資の集散地として、また台網(定置網)を中心とした漁業基地として発展した。
元禄期(1688〜1704)頃から人家が増加し、湊川を境にして北町は湊町・本川町・中町・北新町と分れ、南町は南上町・南中町・南下町とに分れ、これらの7ッの町を総称して本町と云った。
その後南町には7ッの町が、北町には2ッの町ができ、これらは散町とよばれた。
元禄年中の氷見町の家数は1,125で、明和8年(1771)の家数1,416、嘉永4年(1851)には家数1,796と大きく増加している。
職業構成は商工業と水産業に大別される。商業は氷見地方100ヶ村を顧客として、消費物資の大市場として繁栄していた。水産業は台網(定置網)が発達、春はイワシ、夏はマグロ、秋はブリを取り、他にもサバ・アジ・イカ・カツオなどを取っていた。製造業として水産加工(塩干魚)・縫い針・酒造・製糸・うどんなどがあった。
今この町では上庄川河口にある「道の駅海鮮館」へ多くの観光客が流れている。巨大な駐車場を持つこの施設の集客力は大きいが、その駐車場の傍にあるこの町並みには観光客は誰一人として来ない、ひっそりとした町並みであった。
氷見は戦災を受けていないので、伝統的な様式の家屋が多いはずだが、連続して建ち並ぶ町並みにはなっていない。それでも点在した古い伝統ある様式の建物は、かっての繁栄を物語っている。
だがこの建物も明治15年の大火で殆ど焼けてしまっているのでその後に建てられたものだ。
この町並の特徴の一つに霧除けの「オダレ」が軒先に下がっている。この地方ではどういう名称なんだろう。地元の方に聞き忘れたのが残念だ。
町並み指数 30
参考文献
  富山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1994年
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和54年


中央町の町並

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