古代より松任は鶴来・宮腰(金石)・美川からの街道が集まる手取川扇状地の中核的な在郷町として発展を続けた。 慶長3年(1598)丹羽長重が小松に入り、小松・松任を合わせて12万石を領有したが、関が原の戦いで改易され、丹羽領は前田利長の領地として加領され、その後、江戸を通じて加賀藩領であった。慶長10年(1605)に前田利長が没した頃、松任城は廃城になったが、それまで町は城下町の性格は持っていた。 廃城後は宿駅機能を備えた在郷町とした発展し、火事・洪水などの被害も少なく最近まで江戸時代の町並を残していたそうだ。 元和元年(1615)ころから本格的に町立てがなされ、町場は城跡の南方に東西に延び、北陸街道(本町通り)を中心に、その北に新町通、南に後町通が並行して走り、それら三筋の東端に南北に東町通・石同町通が通って整然とした町並を形成していた。 天明5年(1785)の町絵図によると、北陸街道に沿って、茶屋町・安田町・中町・八日市場(現八日市町)・四日市場(現四日市町)・一番町(現東一番町)・東町(現東二番町・東三番町)・八ッ屋町(八ッ矢町)があり、後町通に西から馬場町・博労町・西後町(現鍛冶町)・東後町(現辰巳町)、新町通に西から西新町・東新町、安田町と西新町を結ぶ南北の通りに横町等が記されている。 寛永年間(1624〜44)の家数は約270。明暦3年(1656)の記録では役屋家数383とあり、元禄3年(1690)の調べでは総軒数528とある。享保11年(1726)の総軒数599、寛政4年(1792)では総軒数872であった。人数は文久2年(1862)に3980とあり、明治4年の調べでは4495人とある。 「皇国地誌」では家数1067・人数4986であった。 松任町が北陸街道の宿駅に指定されたのは元和2年(1616)である。正保元年(1644)に加賀藩主の宿所・休息所として御旅屋が建てられ、参勤交代は勿論、藩主の鷹狩の際の休息所としても用いられた。また御旅屋は大聖寺藩主も使用していた。この御旅屋は建物老朽化により、宝永7年(1710)廃止され、以後、笠間屋(青木家)(本誓寺角の東側)などを本陣として利用した。 この地の商工業としては、菜種油製造と繊維産業があげられる。菜種油製造は松任町が豊富な菜種の生産地である石川郡を控えていたことと、藩の奨励があったことに加え、早くから水車を利用したことによる。繊維産業は早くから絹織物があげられ、松任紬・松任染など藩の代表的な産物であった。江戸後期には製織りよりも染絹の生産が多くなり、文化11年(1814)には紺屋が77軒を数えた。 さて今の町並は、松任は古くから火災も洪水も少なくて、古い町並がそのまま残っていたそうですが、今になればそのことが災いになり、開発の並に飲まれてしまい、旧北陸街道沿いの町並をはじめとして、江戸時代の規則正しい町並が全て取り壊されて、道路が広げられた犠牲になってしまった。古い町並としては殆ど残っておらないが、旧東町通りに僅かに伝統的な様式の家屋が点在している程度だった。 石川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
東新町の町並 |
東新町の町並 |
東一番町の町並 |
東新町の町並 |
布市町の町並 |
布市町の町並 |