福光は散居村が広がる砺波平野の南西部に位置しているが、金沢市に近く古くから加賀120万石の文化が入っていた地区である。 天正13年(1585)前田利勝(利長)の支配下に入り、江戸時代は幕末まで加賀藩領であった。福光村は中世〜戦国期には福光城の城下町及び善徳寺(後の城端善徳寺)の門前町であったが、江戸時代には砺波郡南部から金沢城下へ向かう二股越えの道に沿った交通の要所に位置したことから在郷町として賑わった。 加賀藩では、福光地域でその地で支配力のある郷士や大百姓を十村肝煎として、農村支配に当らせ、藩政の安泰を図った。特に石崎・得能両家は砺波郡十村の筆頭に立ち、農民の指導に当った。 福光村は加賀藩領で、十村組は元和5年(1619)頃は広瀬組に属し、寛永11年(1634)頃は四十九坊村の徳右衛門組に属した。明暦2年(1656)では田中村覚兵衛組に属していた。天明(1781〜89)頃は三清元組に属し家数は376軒・人数1,922人。天保10年(1839)頃は石黒組に属し、家数671軒・人数2,960人で、十村は石崎彦三郎であった。 加賀藩は寛文2年(1662)には蔵宿所在地に指定し、寛文〜延宝(1661〜81)には収納蔵が設置され、南砺波地方の年貢米は蔵宿に納められた後、二股越えで金沢へ。また五箇山中で生産される煙硝・紙なども福光を経由して金沢へと運ばれた。 福光地域は生糸と麻布の大生産地であり集散地であって、麻布(八講布)は江戸末期には加賀領内で最大の集散地となった。製品は蚊帳に仕立てられて京都・大坂・江戸に送られていた。 一方生糸(曾代糸)取引も多く、売上高は麻布の販売額を上回っていた。江戸中期には福光の生糸商人が藩用として金沢城に納め、加賀絹として名声を高めた。さらに、幕末の文化・文政(1804〜29)頃、加賀国宮腰(現金沢市)の海運業者銭屋五兵衛の、密貿易のための福光生糸買い付けに応じて、福光商人は大きな利益に潤い、豪商・資産家が続出したと云われている。そしてヨーロッパにおいても福光生糸の品質は高く評価されたという。 明治にはいり、生糸の製糸は機械化されて、アメリカなどへ輸出されたが、糸価の変動が激しく福光の製糸業は幾多の浮き沈みを繰り返しつつ、昭和初期までは福光の最大産業として君臨した。しかし第2次大戦前後には全て廃業されてしまい木工業や繊維産業が盛んになり今に至っている。 古い町並は金沢への道筋等の東西の通りや新町のあさがお通りに残っている。町並の様子から、かっては本町通りがメイン通りで、この道筋に古い町並があったようだが、今は道路拡張工事により電柱は取り除かれているが、全く新しい町並が生まれていた。 新町には僅かに伝統的な商家の建物が点在し、街道筋の町並らしい雰囲気を残している。 この福光町も隣の城端町も共に古い町並があったようだが、近年の道路拡張工事により、全て取り壊されてしまい、昔の面影がなくなっていたのは惜しまれる。 富山県の歴史散歩 山川出版社 富山県歴史散歩研究会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 富山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1994年 |
新町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |
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本町のミュージアム吉江 |
味噌屋町の町並 |
味噌屋町の町並 |
荒町の町並 |