穴水町中居南の町並み
中居南
地図


中居南の町並
 中居南は七尾北湾に面した中居より南に続く集落です。平安時代から鋳物産業が盛んであったと思われる。江戸期を通じて加賀藩領。
江戸時代中居南は中居と共に村扱いだが町と通称されていたほど発展した町だった。
元和6年(1620)には藩の御用鋳物として鉄砲を鋳造し、寛永7年(1630)に製塩の貸釜制度が始ると、その鋳造と貸釜で中居鋳物や中居南鋳物は繁栄した。村田・中瀬・森川・伊藤・小林が当村の鋳物師であった。
寛文10年(1670)の村御印では猟船櫂役290匁とあるから、漁も活発に行われていたようだ。享保20年(1735)の百姓数111、文化8年(1811)の家数158・人数703とある。
元文年間(1736〜41)には中居では貸釜2千枚が有ったが、宝暦年間(1751〜64)から高岡釜が進出し、中居鋳物の塩釜鋳造数が激減した。
安政5年(1858)には中居南で家数124・人数560。稼ぎは鰯網・釣猟・ナマコ猟・鋳物師などで、廻船問屋は村田屋・万年屋などがあり、幕末から明治初期にかけて蝦夷松前・江差や瀬戸内海と交易していた。
嘉永7年(1854)から安政5年(1858)にかけて石見国・出雲国より鋳物用銑鉄が搬入されている。
明治5年の産業はナマコ・鋳物鍋釜であった。明治12年の貸塩釜280枚。明治16年の家数150・人数660とある。
大正13年に通称金屋の浜の吹屋が廃業し、中居鋳物は廃絶した。その後鋳型を造る技術が佐官に転用され、北海道・東北・関東・中京・関西などへ佐官職として出稼ぎに出た。今も漁業で生計を立てている方より遥かに多くの方が佐官職として出稼ぎされている。
中居南には漁師町とは少し異なる町並が展開していた。漁師町のような建物もあるが、海岸に沿って平入りで大型の建物も多く、新しい形式の建物が殆ど無い見応えのする独特な町並が展開していた。
町並み指数 60
参考文献
   石川県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1991年
   角川日本地名大辞典  角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年


中居南の町並

中居南の町並

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