湯沢市は秋田県の南端部、横手盆地の南端、雄物川の上流域に位置し、今回訪ねた所は雄物川の右岸である。 江戸期を通じて久保田藩領(秋田藩領)。 慶長7年(1602)佐竹義宣が久保田(秋田)に入封し、湯沢には所領として佐竹義種が城代として、湯沢城に入った。元和6年(1620)その子義章のとき、一国一城令により、湯沢城は破却され、義章は城下に館を築き移り住み、小城下町としての形態を整えて行った。それ以後、代々明治まで佐竹南家としてこの地を支配した。 武家屋敷は佐竹氏の居館の周りの、南館新町・南館上町・南館下町・南館荒町・内館町・根小屋町・金池町・大工町・新町などに置かれ、内町と呼ばれた。 内町に対して外町は町人町で、町の周囲に土手を巡らし、木戸が設けられていた。享保15年(1730)の「六郡郡邑記」によると吹張町88軒・田町103軒・大町88軒・前森町96軒とあり、「秋田風土記」には町家368軒とある。 湯沢町が発展したのは、院内銀山への物資調達を担ったのが大きかった。他に周辺農村の商品作物(煙草等)を久保田城下に運び、織物・海産物などの生活必需品を持ち帰る機能を持ったことによる。雄物川の舟運が大きく貢献し、雄物川河岸の落合集落は最大の船着場であった。 湯沢町は羽州街道が通る他に、多くの脇街道の起点であり、宿場町として伝馬役を担っていた。外町の中心である田町・大町・柳町は町成立当初から伝馬役を賦課されていたが、その負担が大きいために、宝永4年(1707)から前森町・吹張町も伝馬役に加わるようになった。 町には2・5・9の九斎市が立てられていた。 また、明和年間(1764〜72)の湯沢絵図には「湯沢酒屋13軒」とあり、文政4年(1821)幕府検使への「御答書」にも「当所酒造高300石位酒屋11軒ばかり」とあり、湯沢の酒造りは江戸期から有名だった。 今、古い町並みとして訪ねた前森町は、旧羽州街道に沿って両関酒造の町並みである。大きな看板を揚げた主屋を中心に、酒蔵、土蔵などが醸し出す古い町並みの雰囲気は称賛に値すると思う。この辺りの伝統的な大型建物は妻側の真壁を街道に面して建てられた見事な建物だ。ただ、個々の建物は立派だが連続性が無いので町並としては少し評価が下がるのは仕方ないと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 秋田県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 秋田県の歴史散歩 山川出版社 秋田県の歴史散歩編集委員会 1996年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
前森4丁目の町並 |
前森4丁目の町並 |
前森4丁目の町並 |
前森4丁目の町並 |
前森1丁目の町並 |
吹張2丁目の町並 |
吹張2丁目の町並 |
吹張2丁目の町並 |
田町2丁目の町並 |
田町1丁目の町並 |