城下町米沢は山形県の南東部、米沢盆地の南端に位置する。最上川の源流(松川)、大樽川、鬼面川等の大小の河川がほぼ北流し、そられが合流するところに扇状地が発達し、その中心に米沢市街があり、市街地から約3kmほど南に芳泉町がある。 慶長3年(1598)上杉氏領、慶長6年(1601)からは米沢藩領となる。慶長3年(1598)上杉景勝が会津120万石で入封し、米沢城には家臣の直江兼続が入城した。関ヶ原の戦いで上杉景勝は豊臣秀吉に組したため、戦後慶長6年(1601)に30万石減封され米沢に家臣と共に移ってきた。更に寛文4年(1664)藩主上杉綱勝が死亡したことにより、領地が半減され15万石となってしまう。 米沢には上杉景勝の家臣直江兼続の家臣がいたが、せいぜい780人余であったので、上杉景勝の家臣約5000人程とその家族が移ってきたのだから直ぐに、城の拡張と城下町造りがはじまった。 堤防を造り、堀を掘り、川の流れを変え、河川を埋め立て等を行い、城下町の区域を大幅に広げた。藩主御殿や各種役所・御蔵・上級家臣や中級家臣の住居も割り当て、町人町も配置した。しかし配置しきれなかった下級家臣は城東・城南の村方に居住させ、半農半士の原方衆屋敷町を形成したのが、この芳泉町(当時は六十在家町・長手新田町・窪倉町といった)もその一つである。 15万石となっても多くの家臣団を養う必要から、松川流域・鬼面川流域などで新田開発が下級家臣・陪臣などを配して活発に行われ、城下外の村方に原方屋敷町や陪臣屋敷町が形成された。 六十在家町・長手新田町・窪倉町は城下町の侍町の一つで、明和6年(1768)の原方屋敷絵図によると六十在家町には本町・新田・中の町・下の町があり、家数162、長手新田町21で、窪倉町は明治11年では家数30とある。 六十在家町は南北の道に沿う両側町。東は松川を限る当地はもとは松川河原の原野であったが、原方衆が配置されて、彼らの開墾により成立したものである。 長手新田町と窪倉町は,寛文4年(1664)米沢藩が30万石から15万石に減封され、屋代郷が幕府領となった際、その地の下級家臣が原方衆として長手新田町や窪倉町に移ってきたもの。 いま、当時の原方衆の屋敷町を歩くと、当時のままの大きな屋敷地に茅葺屋根の家屋が建つ光景が見られる。屋敷内で野菜などを作って自給の生活をされていたのだろうと思われる。 道路に面して生垣を、少し奥まって主屋の建物を配し、在郷町の商家などと違い土蔵が見当たらない。でも、これだけ多くの茅葺屋根の民家が残っているものと感心する町並探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
芳泉町の町並 |
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