雪国秋田の冬の行事で、400年以上の歴史を持つ「かまくら」は、この横手の武家屋敷で新年にあたり、災難を取除いて子供の成長を祈るものであった。水神様を祀るのは、横手地方は水不足に苦しんだもので、水が心配なく豊であるようにと、祀られたものである。 戦国時代の横手は小野寺氏支配で、慶長6年(1601)徳川幕府により没収されるまで、横手城を居城として、城下町も整備され、現在の横手市の原型を形成した。 慶長7年(1602)秋田藩に佐竹氏の入部とともに、横手には伊達盛重が配置された。元和元年(1615)の一国一城令でも、取り壊しを免れ、領内支配の拠点として所領預りが置かれた。その後、須田氏3代、戸村氏が8代が横手城代として続き、藩政時代の県南地方の政治・軍事・経済の中心となって明治に至った。 旭川以東の武家屋敷地区を内町、以西の町屋地区を外町と呼んでいた。内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた。 外町は、城下町建設当時は大町と四日町を町人町として背後に寺町を配したと見られている。両町は江戸時代以前から商人町・市場町として形成されていて、その後、順次拡張していったようだ。寛文9年(1669)の横手絵図によると、川原町・四日町・二日町・五日町(鍛治町)・柳町・裏町(馬口労町)・御鷹匠町・五左衛門南足軽町の八町、総戸数363戸があった。 戊辰の役で、庄内・仙台連合軍の攻撃を受けた横手城は防戦も空しく炎上した。そして横手城下の内町は過半が焼失してしまった。 今、この武家屋敷の雰囲気は、上内町と羽黒町によく残っている。建物は殆ど明治以降の建物のようだが、黒板塀・生垣が整えられ、薬医門・冠木門が点在し、松・モミなどの大木が屋敷を覆う姿は風格ある武家町の様相を形成している 秋田県の歴史散歩 山川出版社 秋田県歴史散歩編集委員会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 秋田県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 東北小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 |
上内町の町並 |
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羽黒町の町並 |
羽黒町の町並 |
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羽黒町の民家 |
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大町の平源旅館 |