江戸時代後期には多くの富裕な増田商人が生まれ、度々御用金の調達に応じていたほど、この地の商業活動は活発だった。 増田は皆瀬川と成瀬川が合流して扇状地を形成し、その中心部に位置する。この地は江戸初期からの町であり、江戸中期には養蚕・煙草の栽培が盛んとなり増田村はその集散地・消費物資の市場であり、多くの増田商人が育った。 江戸期を通じて秋田藩領あった。享保15年(1730)の「六郡郡邑記」の家数303軒で、3・7の日の六斎市が開かれていた。文化12年(1815)の「秋田風土記」には人家400軒とある。 増田商人は葉藍・煙草・生糸・真綿などを買い集めて、久保田・土崎湊(現秋田市)などの商人へ売り捌き、周辺の平野部から米を買い集めて、米穀集荷商としても活躍した。そして成長した増田商人は藩政末期には度々御用金を課され、明治4年の御用金は27人で、調達金額は9,630両であった。これは同年の横手11人・2,617両や湯沢の6人・1,177両よりはるかに大きい金額であり、それだけ増田の町が繁栄していたかが解る。 その後、国道・鉄道から外れたため町の商業は衰退するが、大地主が多く住んでいたため、明治になっても勢いは残り、明治28年に増田銀行が設立され、以後明治29年増田酒造営業組合、明治30年には増田瀬戸合資会社、増田葉煙草専売所、明治42年には増田信用組合、明治44年には増田水力電気株式会社などが設立され、この地の経済の中心地として発展した。 今、町並は切り妻造りの妻入りの広大で伝統的な商家の建物が多く残り、豪壮な妻飾りはかっての繁栄を象徴しているようだ。 そんな妻入りの伝統的な建物の中で、日の丸醸造本社、勇駒醸造本社などの建物が威容を誇っていた。 秋田県の歴史散歩 山川出版社 秋田県歴史散歩編集委員会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 秋田県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
増田中町の町並 |
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