山形市は山形県中央部東寄り、山形盆地の南東部に位置し、馬見ヶ崎川沿岸に位置する。江戸期を通じて山形藩領。はじめ最上氏支配であったが、元和8年(1622)から鳥居氏・保科氏・松平氏・堀田氏と続き、弘化2年(1845)からは水野氏支配となる。最上氏の築城以来町割りが行われ、鳥居氏により町の拡張、馬見ヶ崎川の修築、街道整備などを通じて山形城の城下町として発展した。町数は江戸期を通じて30〜33町。郭内二の丸には藩重臣の屋敷が、三の丸には上・中級の家臣団の屋敷が割り当てられ、三の丸の出入り口は11口あった。町屋は南北に通じる街道に沿って南西から上町・五日町・八日町・十日町・横町・七日町・旅籠町・六日町・四日町・宮町などがあった。 元和年間(1615〜24)の在町分限帳では町数31、屋敷数2,319軒半、人数19,796。藩士を合わせると城下の人口は30,000人程と思われる。元禄年間(1688〜1704)では町数30、屋敷数2,507軒半、家数2,157、町中人数13,032、高24,048石余。延亨3年(1744〜48)では屋敷数2,037軒半、人数12,586、高19,905石余。 天保13年(1842)の村山石高帳では町数29、高24,483石余、旅籠町は奥州街道の宿駅として本陣・脇本陣をはじめとする宿屋町であった。八日町は出羽三山詣での道者宿があり、夏の参拝時には大変賑わった。城下の商品取引は市場で行われ、二日町・三日町・十日町などで、それぞれ市が立ち、月6〜7回の六斎市もあった。 さて、今山形市内の旧城下町や宿場町を歩いても、殆どそれらしき名残は見当たらない。山形県の県庁所在地として発展したために仕方ないことかも知れないと思いながら歩き回った。極一部だが白漆喰塗り込めの伝統的で重厚な家屋を見られたので良しとするか。 山形県の歴史散歩上 山川出版社 山形県高等学校社会科教育研究会 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
七日町3丁目の町並 |
七日町4丁目の町並 |
七日町4丁目の町並 |
七日町1丁目の町並 |
七日町2丁目の商業施設 |
本町2丁目の民家 |
十日町2丁目の町並 |
香澄町2丁目の教会施設 |