矢吹町は福島県南部、中通り南部に位置する旧奥州街道の宿駅であった。 近世初めは会津領、寛永4年(1627)白河藩領、慶応4年(1668)からは幕府領。 村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録には屋吹と見え353石余、白河古領高帳では472石余、「天保郷帳」522石余、「旧高旧領」472石余。享保20年(1735)の家数81・人数350、馬31。嘉永7年(1854)の家数81・人数406とある。 奥州街道の宿場として整備され、大通りの両側には本陣・脇本陣・旅籠屋・休処などが軒を連ね繁栄していた。 矢吹宿辺りには古くから人家が点在していたが、天正6年(1578)に整備され、南北5町14間、家数67軒の矢吹宿となった。天正18年(1590)町割りが行われ、6町53間と次第に人家が増え、本陣・脇本陣・旅籠などが並び、西に延びる棚倉街道・会津街道の分岐点であった。 嘉永4年(1851)町割りが行われ、家ごとに屋号を付け、間口一軒前6間とし、上の枡形から下の枡形まで112軒となっている。 矢吹宿の南に中畑新田宿がある。矢吹宿と共に一つの宿場として機能していたようで、この中畑新田宿の中程から東に分岐する道があり、水戸街道の起点となっていた。 この中畑新田村は慶長元年(1596)に中畑村から移住させた38軒で持って構成されていた。 今、旧奥州街道に沿った町並で、本町・中町が矢吹宿で、新町が中畑新田宿だった所。 伝統的な様式で建てられた重厚な商家建築が点在する町並、また一部近代建築も目に付く町並だったが、東北大震災後2年以上経過して訪ねたが、震災の傷跡が生々しく残り、あちらこちらでブルーシートで覆われた個所が目に付き、心痛む探訪だった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
本町の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
中町の町並 |
中町の町並 |