亘理町は宮城県東南部、北は阿武隈川によって限られ、西は標高100m程の丘陵によって角田市に接する。亘理町の市街部は、阿武隈川によって限られた地域の丁度中心部にあたる。 慶長7年(1602)片倉氏に代わって、伊達一門の伊達成実が入封し、以後亘理伊達氏が明治維新まで亘理要害に居城した。 江戸時代は小堤村といい、亘理町と改称されたのは明治22年である。村高は「元禄郷帳」では小堤村とあり1,234石余、「天保郷帳」では2,104石余。「封内風土記」によると家数164。 中央を南北に陸前浜街道(江戸浜街道)が通り、街道沿いに亘理宿の町並が形成されていた。 宿場の西方丘陵上に亘理伊達市の要害屋敷があり、要害の北・東・南にその家中屋敷がめぐらされていた。寛保3年(1743)の「要害・所・在所拝領改帳」では侍屋敷567・寺屋敷9・足軽屋敷445・小人屋敷6・下中屋敷7である。文政9年(1826)の亘理家中分限帳では侍707・寺17・足軽296であった。 亘理宿の本格的な町場の形成は、慶長7年(1602)片倉氏が白石に移り、伊達成実が入ってからである。同年新井町の鈴木家が検断に任命されており、慶長17年(1612)には全面的な町場の町割りが実施されたと思われる。寛永年間(1624〜44)に入って五日町検断斎藤家、上町検断木村家が設けられているので、先の鈴木家は新井町検断になったと思われる。 亘理要害図によると、町場は南北に長く、北より亘理伊達氏の城米蔵のある新井町・五日町・中町・上町・横町・中間町と続く。新井町の中程で若干L字型に折れ、五日町と中町の境で大きく鉤型に折れている。 商家として、酒造の渡部屋・鈴木屋・石垣屋、御塩問屋の武者屋、糀製造の山形屋などの商家が名を連ね、扱う商品は呉服・木綿・古手・薬種・小間物などであった。江戸中期には米・海産物の他に、紅花・藍・煙草・生糸・蝋・漆・楮などの取引が六斎市で行われていた。 亘理郡地誌によると、明治初年の家数502・人数2,476とある。 古い町並は旧陸前浜街道に沿って、伝統的な様式の家屋が並んでいる。白漆喰塗り込めナマコ壁の商家の建物や土蔵が、古い町並景観に寄与している。この町並では東北大震災の被害は修理されていたようで、ブルーシートを目にしなかったが、綺麗な白漆喰をみると、修理されたのだろうと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
上町の町並 |
上町の町並 |
上町の町並 |
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新井町の町並 |
新井町の町並 |