戊辰戦争での白虎隊が眠る会津若松は、その戦火で殆どが灰塵と化したが、その後有力商人が建てた建物が市内の各所に残っている。 豊臣秀吉から会津の地を与えられた蒲生氏郷は91万余石を領し、徳川家康、毛利輝元に次ぐ有力大名であった。会津に入った氏郷は居城や城下の整備に着手し、武士と町人の雑居が改められて、武家屋敷と町人町を明確に区別した。 領主は蒲生氏郷ー上杉景勝ー蒲生秀行ー加藤嘉明と代り、寛永20年(1643)保科正之が最上から移封されてきた。保科家三代目藩主正容のとき幕府から松平姓が与えられ、正之以降は徳川御三家に次ぐ大名として幕末まで続くのである。 中世の城下町を近世の城下町若松を造ったのは蒲生氏郷である。郭外の町割りを定めて商人・職人の居住地を定め、市を開くことを許した。これによって武家屋敷と町人町が区別され、今まで郭内にあった、大町・馬場町が郭外に移された。 寛文5年(1665)の会津城下町方調によると54の町数が記載されている。貞享2年(1685)の「町風俗習ー大町」には大町・馬場町・新町・後町を四町と呼んで、他の町とは別格扱いになっている。大町・一之町・七日町を分ける辻は、制札をかける札辻として賑わったところである。 若松の産業は漆器・酒造・製糸などが領主の保護政策によって発達していた。 有名な会津漆器は蒲生氏郷によって近江日野から職人や技術を導入し、その後の改良が奨励されて発達したものである。その後保科正之も漆器製造技術の改良を進めたので、寛文6年(1666)には塗師が150戸となっている。 寛文6年(1666)の町方の総家数3,256・人数19,385。主な職業は酒屋203・塗師190・米屋110・質屋76・雑鍛冶68・大工52などあらゆる職種に亘っている。 今回訪ねた七日町辺りは、氏郷の城下町整備によって大町が郭内から今の位置に移ってきた時にできた町で、大町札辻より西に行く越後・出羽両国に通じる街道に沿った町であった。交通の要衝なので旅籠屋が多く、17世紀中頃は17軒あったが、弘化2年(1845)の旅籠株極帳によると、城下全町の旅籠屋95軒中、七日町だけで30軒を数えている。 若松の町は明治元年の戊辰戦争で壊滅的な被害を被ったが、その復興を支えたのは有力商人たちであった。彼らの建てた店舗や店蔵・土蔵が今でも町の各所に残っている。大町から七日町の通りに残る伝統的な様式の民家や土蔵もその時に建てられたもので、土蔵造りの店、レンガ造りの土蔵、洋風な近代建築と、様々な建物が通りに面して建っていた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 福島県の歴史散歩 山川出版社 福島県高等学校社会科研究会 1990年 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
七日町の町並 |
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