鶴岡市市街の町並み 
本町1丁目・本町2丁目・泉町
地図


本町2丁目の致道館
 山形県鶴岡市街は山形県西部、庄内平野の南西部に位置する。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)最上義光は石高を加増され、大宝寺城を自分の隠居城とした。慶長8年(1603)大宝寺城を鶴岡城と改称し、鶴岡の水害を防ぐため現在の内川筋を流れていた赤川の本流を熊出で締め切って現在の流路に流し、赤川から取水する青竜寺川などを開削、整備した。
慶長19年(1614)に義光が没し、その後藩内不統一を理由に元和8年(1622)最上氏が改易され、同年酒井忠勝が庄内藩主として鶴岡城に入り、そのまま明治を向かえる。最上氏当時の鶴岡城は狭小で、のちの二ノ丸となる地域には重臣8人の屋敷地、三ノ丸となる地域には武士と町人が住み、五日町・三日町・一日市町・七日町・肴町・新町などの町人町を形成していたと云う。
酒井忠勝は二ノ丸・三ノ丸を取り立て城域を拡張し、郭内の町々や村を郭外に移転した。城に近いところに役所や重臣の屋敷地を、その周囲に家中の屋敷の町割りを行った。町人町は城の東側と南側仁町割りした。北から荒町・下肴町・八間町・五日町・三日町・十日町・一日市町・南町・七日町・上肴町・新町などを置いた。五日町・三日町・七日町は目抜き通りで「通丁」といった。それらの商人町の外側には鍛冶町・檜物町・銀町などの職人町を置いた。商人町・職人町の町人町は14町になり、大庄屋支配であった。
寛政2年(1790)の肴問屋数17。延享2年(1745)の質屋敷54。安政6年(1859)の旅籠屋敷17(飯盛り女429)・下旅籠屋数23(飯盛り女134)。旅客は出羽三山の道者が多かった。
加茂港に入った上方荷や松前の海産物は当地に輸送され、一部はさらに内陸へと転送された。赤川は鶴岡城の要害として橋をかけず渡し場を設けていた。
鶴岡ー酒田間には赤川の舟運があり、酒田船が荒町河岸で発着していて、廻米などの物資輸送の大動脈で、酒田船が独占していた。元禄2年(1689)松尾芭蕉も同船によって酒田に下った。
明和7年(1770)の御国目付への書上げによると、人数は家中2,597・給人6,609・町人8,499、合計17,705とある。
鶴岡の街道は城下北東から北へは酒田街道、東には舟形街道(狩川街道・清川街道・江戸街道)、南東には六十里街道、南には小国街道が、南西海岸沿いには温海街道が通っていた。この内、舟形街道は藩主の参勤交代路に利用されていた。
いま、鶴岡市内で古い町並と云えるほどの所は無いが、古い歴史の町であり、内川の東側の所々に伝統的な家屋や土蔵が残っていた。
町並み指数  30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年
   山形県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1990年
   山形県の歴史散歩  山川出版社  山形県高等学校社会科教育研究会  1996年   

本町1丁目の土蔵

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町家

本町1丁目の町並

泉町の町並
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