鶴岡市大山は山形県の西部、庄内平野の西部、高館山の南東山麓に位置する。 近世初めは上杉氏領、慶長6年(1601)最上氏領(尾浦城城下町)、同8年(1603)大山城と改称。元和8年(1622)大山城廃城とともに庄内藩領となり、慶安2年(1649)大山藩領、寛文9年(1669)幕府領、元治元年(1864)からは再び庄内藩領。村高は元和8年(1622)の御知行目録では1,712石余、寛永元年(1624)の庄内検地高辻では1,988石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,913石余。 大山村は小規模ながら城下町の形態を整えており、天文年間(1532〜55)から武藤(大宝寺)氏の尾浦城があった。慶長6年(1601)最上氏領となった当時の尾浦城城主は最上氏の武将下治右衛門で、知行12,000石、菱津川の治水、城郭の拡張、城下町の町割りを実施した。 元和8年(1622)最上氏改易により、庄内藩領(酒井忠解藩主)となり大山城は廃城、そして町奉行が置かれた。正保4年(1647)藩主酒井忠勝が没するとその子忠解に1万石が分知され大山藩が成立した。寛文8年(1668)忠解が没すると嗣子がいないため改易となり、幕府領に編入され、当村に陣屋が置かれた。元治元年 (1864)再び庄内藩領に復し大山組大庄屋の支配になった。 宝暦11年(1761)の村明細帳では、高1913石余、家数689・人数2948、馬63とある。 大山村を羽州浜街道が南北に通り、北の酒田方面へ向うものは酒田街道、南の越後方面に向かうものは三瀬道と呼ばれた。他に鶴岡城下と加茂を結ぶ大山街道等が交差する交通の要衝であった。 この村で有名なものに大山酒がある。醸造の始まり不明だが、元禄10年(1697)の株改め時には酒屋15軒・酒造石高1,320石余、休酒屋25軒であった。その後酒屋・酒造石高とも増加して享保6年(1721)酒屋39軒・酒造石高1191石。安永8年(1779)40軒・3,326石。文化元年(1804)36軒・7,662石。天保13年(1842)35軒・8,904石。慶応2年(1866)33軒・:11,033石となっている。 明治に入り鉄道の普及によって、大山酒は関西や関東酒の進出により衰微していった。酒造戸数は明治35年16戸、明治40年14戸とあり、昭和10年代には10戸だったが、平成24年現在でも4戸の酒造家が大山酒を造り続けていて、今でも立派な酒造の町と云えるだろう。 町並を歩くと、造り酒屋さんの家屋が目につく町並で、酒造の町なんだなあと思いながらの町並探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
大山2丁目の町並 |
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