鶴岡市加茂は山形県西部の鶴岡市街から北西に約10km程のところで日本海に面した小湾に位置する。近世初めは上杉氏領、慶長6年(1601)最上氏領、元和8年(1622)からは庄内藩領、京田通に属す。元和8年(1622)の御知行目録では132石余、寛永元年(1624)の庄内検地高辻では274石余。「天保郷帳」「旧高旧領」ともに131石余。漁港としてよりも、商港としての役割が大きく、港町として賑わっていた。 町づくりは舟の繋ぎ場であり漁師町でもあった港北側の泊町からはじまり、慶長12年(1607)には東の山手に新町が、同19年(1614)には南側山伝いに岡町が町割りされた。以後宝永年間(1704〜11)までに湾岸南から浜町・中町。その内陸部には登町・荒町が並び、総軒数300を越える町割りが完成した。 浜町・中町には十数軒の廻船問屋、そして船を持たない付船問屋が十数軒並び、出船入船で賑わい、この賑わいは明治まで続いたと云う。酒造業者が10軒ほどあり、旅籠屋なども繁盛した。 加茂湊は主に酒田湊に向かう船が食糧や水の補給や暴風雨からの避難などを目的として寄港した。 入港する船の出港地を付船問屋の高橋瀬次郎家の客船帳でみると、文化年間(1804〜18)から明治初年までの間に、加賀569艘・越前331艘・能登174艘・若狭46艘などで、計1,200艘近くの入船の約半分が北前船であった。 この北前船に対して、出羽・陸奥・松前からの船は北国船と呼ばれていたが、当地の船もこれらの北国船の一翼として諸国を往来しており、その数は6名の名が残っている。 宝永6年(1709)の家数は中町84・新町16・泊町72・登町29・荒町42・今荒町(岡町)32・浜町29・そして村方11とある。弐郡詳記では家数402。旅籠屋は15軒とある。 加茂湊で陸揚げされた荷物は、大山や鶴岡城下まで、馬士や陸揚げ人夫の丁持や背負子などのよって、加茂坂を越え加茂街道を経て運ばれていた。 湊町として栄えていた加茂湊であるが、今はひっそりとした町であった。碁盤目状に近い状態に町割りされた比較的広い道の両側に、板囲いで覆われた家屋が連なる。中には塀で周りを囲んだ大型の屋敷地の家屋もあったが、木製の板を多用した家屋が比較的密集して建ち並ぶという印象である。 繁栄した湊町と漁村と云う両面を持つ町並が展開していた。過疎地には違いないと思うが、無住の家屋も少ないようで、町並が綺麗に清掃されていて、今でも漁業で潤っているのだろうと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 山形県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |
加茂の町並 |