つがる市木造は津軽半島の南西部、付け根部分の西、五所川原市街の西約5km程に位置する。 江戸期を通じて弘前藩領。享保12年(1727)広須組に属し、広須通23ヶ村の一つで村位は下とある。 古代から中世にかけてこの地域一帯は津軽湖とも云うべき大きな潟に似た状態だったと推定され、江戸初期から開拓が繰り広げられた。最初の開発は元和年間(1615〜24)から始まったと思われる。寛永元年(1624)近江沢、同3年(1626)には舘岡村の開発が着手されている。 この地域で最も古い開村と思われる上木作村の開村は元和年間(1615〜24)と云われ、上木作村(現木造種取、現木造高校西側)にある三社宮(現三新田神社)の草創も元和年間(1615〜24)としていることからも伺える。 今回訪ねたJR五能線木造駅前辺りは旧上木作村や寛永20年(1643)上木作村から分離独立した木作村辺りで、一番初期に開拓された地域と思われる。 その後の開発の多くは享保16年(1731)や元文元年(1736)から新田検地による陸奥国津軽郡御検地水帳に現れる。 新田村の成立には、防風林の設営が大きくかかわっている。防風林は鯵ヶ沢から十三湖に至る日本海岸の砂丘である七里長浜へ天和2年(1682)から黒松・杉・柏などを植林し、宝永年間(1704〜11)に完成したもので、屏風山と呼ばれている。植付け数は86万2000本にも達した。この防風林の完成により、新田開発が積極的に行われ、検地帳で新田増加が現れたものである。 木作村を通る街道に沿って町場が発達し、江戸後期には鯵ヶ沢から物資が移入され、十三湖に注ぐ岩木川の下流域諸村へ供給する中継地として重要性が高まった。 又、寛政10年(1799)に馬市が立ち、弘前・青森と共に領内3大馬市になっていた。 この町を訪ねて車を留めたのは駅前の広場。JR五能線木造駅の駅舎には大きな土偶が貼り付けられていて度肝をぬかれる。町並は木造駅の北1km程に亘って展開している。妻入りの津軽らしい大型住宅が並ぶも伝統的な様式で建てられた家屋は数棟程しかない。近代的な洋風建築も散見でき、町並みに彩りを添えていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
JR木造駅前の洋風建築 |
木造桜川の町並 |
木造増田の町並 |
木造増田の町並 |
木造増田の洋風建築 |
木造増田の町並 |
木造増田の町並 |
木造増田の茅葺き民家 |