つがる市稲垣町は津軽半島の南部、十三湖に注ぐ岩木川下流左岸、五所川原市街から北西に約8km程の所に位置する。 江戸期を通じて弘前藩領。享保12年(1727)に広須新田川通り32ヶ村のうち1村で、村位は下と定められた。 古代から中世にかけてこの地域一帯は津軽湖とも云うべき大きな潟に似た状態だったと推定され、江戸初期から開拓が繰り広げられた。最初の開発は元和年間(1615〜24)から始まったと思われる。 この地域で最も古い開村と思われる上木作村の開村は元和年間(1615〜24)と云われているが、開発の多くは享保16年(1731)や元文元年(1736)から新田検地による陸奥国津軽郡御検地水帳に現れる。 新田村の成立には、防風林の設営が大きくかかわっている。防風林は鯵ヶ沢から十三湖に至る日本海岸の砂丘である七里長浜へ天和2年(1682)から黒松・杉・柏などを植林し、宝永年間(1704〜11)に完成したもので、屏風山と呼ばれている。植付け数は86万2000本にも達した。この防風林の完成により、新田開発が積極的に行われた。 弘前藩が成立した江戸初期にはこの地は未開発の土地であり、「正保高帳」慶安2年(1649)の道筋帳にも道筋・村落の記載がない。貞享4年(1687)の検地帳にも見えない。 天和元年(1681)の広須新田御掟条々に見られる新田開発政策によって開かれたと思われるが、「西津軽史」によると開村時期は元禄2年(1689)以後であり、、「平山日記」の享保12年(1727)条には、広須新田に属しているとの記載がある。 村高は元文元年(1736)の検地帳では367石余。「天保郷帳」では428石余。「旧高旧領」では429石余とある。 明治初年の沼崎村の家数は57とある。明治12年の「共武政表」によると家数70・人数483・馬90とある。明治22年沼崎村は他の9村と合併して稲垣村となる。 大正初期には稲垣村全戸数851のうち、農家が524と60パーセントを越えていて、昭和50年の国勢調査によると、産業従事者3,714人の内3,023人が農業によって生活しているが、総農家数1,094戸の内専業は61戸に過ぎない。 今、稲垣集落を歩くと、典型的な水田単作地帯である。水田面積は全面積の73パーセントを占める米作地帯である。広い水田地帯の中を通る道に沿って集落が展開している。茅葺き屋根の農家も多く残るが、過疎には勝てずに、無住になった家も多く見られる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 青森県の地名 平凡社 下中邦彦 1982年 |
稲垣町の町並み |
稲垣町の民家 |
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