遠野市宮守町下宮守は遠野盆地の西、猿ヶ石川支流宮守川流域、砥森山北麓に位置する。 江戸期は宮守村(宮森村)といい盛岡藩領。貞亨年間(1684〜88)頃に上宮守村・下宮守村に分村したという(管轄地誌)。上宮守村は遠野通に、下宮守村は大迫通に属した。村高は「正保郷村帳」465石余、寛文5年(1665)の検地帳(宮守村誌)では702石余、「貞亨高辻帳」582石余、「天保郷帳」1,409石余、天保8年(1837)の「御藏給所惣高書上帳」では886石余、「安政高辻帳」1,130石余。明和〜寛政年間(1764〜1801)と思われる「邦内郷村志」では家数245、享和3年(1803)の仮名付帳によると家数299とある。 只、藩領内では江戸中期から上下2ヶ村として把握されているが、幕府に対しては宮守村一村として届け出ていたと思われる。 村内を遠野街道(釜石街道)が通り、花巻に向かう道や田瀬・江刺を経て水沢に至る道が分岐していて、盛岡・花巻と沿岸の釜石・大槌を結ぶ交通の要衝で宿駅として発達した。宿駅の発展に伴い、安永3年(1774)からは5日の三斎市が2ヶ所に分かれて立つようになった。町場は宮守町・下宮守町・あら町などが史料にみえる。 江戸期には宿駅として栄えたため、駄馬用・農馬用として馬産が行われたが、明治に入り乗用馬・軍馬用として種馬所を設けて馬の改良に努めた。第一次大戦後は軍用馬の馬産が増加したが、第2次大戦後は馬から牛肉へと変化し酪農が盛んになった。他に明治末から養蚕も盛んで、昭和30年頃まで盛んに行われた。 古い町並は旧遠野街道(釜石街道)に沿って展開している。新しい釜石街道(国道283号線)が旧街道の南にバイパスとして通ったので町並はチルド保存された状態で、比較的宿駅当時の面影が残っている。妻入り・平入で切妻造りの平屋や2階建てのトタン葺きの伝統的な様式の家屋が多く残っている。千本格子を宿駅当時のまま残している家も見られが、この地域の在郷町的な様相はあまり見られなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 |
宮守町下宮守の町並 |
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