遠野市は岩手県南東部、北上山地中央部にあり、北上山地最大の盆地に位置する。北上川支流の猿ヶ石川に小鳥瀬川・早瀬川などが合流する地点に発達した城下町である。 江戸期を通じて盛岡藩領。 天正18年(1590)から遠野を領していた南部氏は、慶長6年(1601)の阿曾沼広長の敗北により、遠野郷の正式な領主になった。この地は地籍上は横田村に属し、中世に阿曾沼氏が当地統治のため築いた城を横田城(又は鍋倉城ともいう)。 当地の領主、盛岡藩主南部利直は、遠野の領地を東西に二分し、西半分の高原一帯は城代を置いて治め、東半分の海岸地方を阿曾沼氏の一族大槌氏に知行させた。遠野は仙台藩領に接している要地のため、寛永4年(1627)八戸根城にあった南部氏一族の南部直義(直栄)を遠野に移封させ、遠野南部氏独自の裁判権を認め、本藩の藩老の首座を占めさせるなど、あたかも独立した小藩のような形をとった。 遠野南部氏は遠野に入ってから、阿曾沼氏以来の横田城を修復し、鍋倉城と名を改め、領内統治の拠点として城下町を建設した。貞享頃(1684〜88)には町人町五町(横田5町)・侍町七町・同心丁三町・大工丁一町が形成されていた。横田5町は一日市町・穀町・新町・六日町・裏町の5町で、享和3年(1803)の仮名付帳によると家数238軒あり、その内横田5町は189軒、枝村49軒であった。人数は1,892人・馬368。 「邦内郷村志」によると横田5町の家数は608(一日市町181・新町90・裏町120・六日町122・穀町95)とある。 遠野南部氏の配置による内陸と海岸地方との政治的統一は、海岸地方の経済活動を発展させることになった。海岸部とは釜石街道や大槌街道で結ばれ、内陸部の盛岡へは遠野街道で繋がり、相互の物資交流が増大して商業活動が活発になった。 一日と六日の定期市には出馬千頭・入馬千頭の繁栄であった。遠野は物資交流の主要路にあたるため、駄送用馬が多数必要で、馬産振興にも積極的で、寛政9年(1797)には領内の馬数は7,158頭にも及んだ。 今、遠野市内に古い町並みは殆ど見られないが、六日町の旧釜石街道の一本南側の道辺りには、武家地の名残が残る。新町・六日町の旧釜石街道沿いに僅かに伝統的な様式で建てられた大型の家屋が点在して残っている。しかし、かっては一番繁栄していたと思われる一日市町辺りは道路拡張や、都市整備により、全て建て替わり伝統的な恰好をした新築の建物ばかりだった。でも市内所々に蔵造りの町屋が点在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 岩手県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1990年 岩手県の歴史散歩 山川出版社 岩手県高等学校教育研究会 1996年 別冊太陽 日本の町並V 平凡社 湯原公浩 2004年 |
六日町の町並 |
六日町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |
新町の町並 |
大工町の町並 |
東館町の町並 |
東館町の町並 |
穀町の町並 |