富谷町富谷は宮城県のほぼ中央部、吉田川の支流西川が北流する右岸(東岸)に位置する。 慶長年間(1596〜1615)から寛永11年(1634)まで伊達宗清の知行地。宗清没後は藩直轄地となったが、のち大和田筑後が知行した。 元和9年(1623)従来の多賀城経由の街道に代わって、七北田から吉岡への奥州街道 が造られ、丘陵地の寒村だった当地が七北田と吉岡の中間の宿場町として生まれ変わることとなった。 伊達政宗は宿場町を新設するに当たり、旧鶴舘城城主黒川晴氏の家老で帰農していた内ヶ崎筑後をとくに召出して検断に任じた。近隣の者を集め、諸役免許とする特権を与えた。宿場開設当時(元和4年 1618年)の人家は13軒であったが、元和5年(1619)には23軒となり、街道開通時の元和9年(1623)には町の形態も整った。 町は新町や富谷町また町と呼ばれ、松前・盛岡・一関・八戸などの諸大名の宿所や休憩所としての本陣は内ヶ崎家、脇本陣は気仙家が勤めた。また当町には代官所が置かれ、明和3年(1766)山梨善太郎、同7年(1770)荒川加右衛門、天保2年(1831)下野直治らの代官がいた。 「安永風土記」では家数129(内村分28・町分101)・人数762(内村分158・町分604)、馬86とある。 宿場開設の立役者の内ヶ崎家は寛文年中(1661〜73)には酒造業を始め、現在も「鳳陽」の銘で続けられている。 そして、同じく黒川家の家老だった渡部源内家は帰農とともに茶の栽培製造にあたり、富谷茶・吉岡茶として有名であった。 今、古い町並は旧奥州街道沿いに展開している。宿場町開設に尽力した内ヶ崎家の造り酒屋の建物を中心にして町並が構成されている。 旧宿場の西寄りに本陣を勤めた内ヶ崎酒造店の黄色漆喰塗りでナマコ壁の酒蔵が町並のシンボルマーク。町並には伝統的な様式で建てられた家屋が多く残り、東端の街道が枡形に折れ曲がった所にある内ヶ崎家の別邸庭園で古い町並が終わっている。 町並の長さは約300m程の小さな宿場町であるが、見応えのある町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
富谷の町並 |
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