宮城の明治村と売り出し中の登米市登米町(とめし とよままち)は江戸時代の面影を残す登米伊達氏2万1千石の城下町で、寺池村の町場化した部分を登米町とよんだ。 慶長9年(1604)白石宗直が水沢から移封され城下の建設に取り掛かった。北上川に沿った街道に町屋を置き、それに平行して東から前小路・後小路・前舟橋丁・後舟橋丁・桜小路と侍屋敷を割り出し、町屋は荒町・三日町・九日町・中町・金谷町などがあった。 寛永18年(1641)総検地によると家中屋敷174軒・足軽屋敷82軒とあり、宝永7年(1710)には家中屋敷334軒とある。町場の様子は宝永7年(1710)には全体で142軒(中町31・九日町32・三日町33・荒町34・金谷町12)とある。業種として木綿売り8・荒物売り6・五十集売り22・酒造13・染師9・大工7・鋳物師8など各種の職業があったことが解る。 また、北上川舟運の発達に伴い河口石巻と上流盛岡地方との交通が盛んとなり、登米寺池も中継港として発展し、物資交流の要地として繁昌していた。しかし明治に入り陸上交通の発達により、北上川水運は全く衰微し、登米は農林産物の集散地としての機能を停止してしまった。 今町並を歩くと、後小路・前小路などに武家屋敷の町割りが残り、土塀や門構えが残っている。 町人町の方では、三日町・九日町を中心に明治期の店蔵や土蔵・木造切り妻造りの町家も見られる。 こうした中に明治建築の旧登米高等尋常小学校・旧水沢県庁庁舎・旧登米警察署庁舎が残り、それぞれ資料館として公開されていた。武家屋敷の旧鈴木家も春蘭亭として公開され、味噌・醤油醸造元の海老喜の土蔵は蔵の資料館として公開されていた。 宮城県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2003年 日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
登米町寺池の町並 |
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