大和町吉岡は宮城県中央部、奥羽山脈の船形山(1500m)から流れ出す吉田川左岸の段丘上に位置する。 吉岡は江戸期、今村村内の町場化したところを吉岡町といった。元和2年(1616)に仙台藩主伊達政宗の三男伊達宗清が吉岡所(吉岡城)を築城し、奥州街道を付け替え羽後街道を分岐させて、吉岡を城下町として整備し、宿場町としての体裁を整えた。東から北西に通じる奥州街道沿いに町家が並び、その南と北の端に足軽屋敷を配し、南から志田町・上町・西町・中町・下町と続く。町屋敷の西側には家中屋敷を配置しその中に吉岡城があった。 「正保郷帳」では今村宿と記され、家数396・人数1,534、馬112とあり、百姓も町場に集住している様子がわかる。 吉岡は寛永11年(1634)伊達宗清の死後、仙台藩直轄領となったが、寛文2年(1662)奥山大学常辰が、宝暦7年(1757)但木土佐顕行が城主となり所領を拝領し、以降但木氏が幕末まで治世を行った。 町裏の八幡神社を中心に五・九の六斎市が設けられていて、伝馬負担の反対給付として認められたものであった。 江戸初期から奥州街道・羽後街道の整備により通行量が増加し、吉岡宿の伝馬負担がしだいに重くなってきた。吉岡宿は仙台藩内でありながら、直轄領でなく但木氏の領地であったので、藩からの助成金は支給されず、宿場町吉岡の上町・中町・下町の三町に住む伝馬役の百姓家・商家が負担せねばならなかった。もともと耕地も少なく、五・九の六斎市もしだいに不振となりつつあった上に、街道交通が頻繁になるにつれて、出役の増加のため生計が困難になってきた。 伝馬の負担が重く、耕地も少なく、六斎市も不振が続き、他国に逃げ出す人々が多く、空き家の増加が目立った。 宿場の救済策などは「国恩記」に記載され、今年(2016)に松竹で映画化され 「殿 利息でござる!」 で公開され好評を博した。 奇想天外な救済策は功をそうしたが、負担の重いのは変わらず、吉岡の町場は殆ど発展が無かったようで、幕末に近づくにつれて空き家はドンドン増加していった。 町並を歩くと、映画に影響されてか、吉岡宿本陣案内所が旧本陣近くに設けられ、昔の宿場町や映画の撮影時のことなどを説明していたが、時すでに遅しで、町並の中には殆ど古い形式の町家が残っておらなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 宮城県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1987年 |
吉岡の民家 |
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