庄内町狩川の町並み 
狩川
地図


狩川の町並
 庄内町狩川は山形県北西部、庄内地方の東部に位置する。
近世初めは上杉氏領、慶長6年(1601)最上氏領、元和8年(1622)からは庄内藩領。狩川通に属し、村高は元和8年(1622)の御知行目録では866石余、寛永元年(1624)の庄内検地高辻でも同じく866石余、他に狩川本町・貫地目・東新町新田として3,558石余。元禄9年(1696)の狩川大堰水下惣高覚では3,669石余、「天保郷帳」では4,415石余、「旧領旧高」では3,657石余。
幕末期の文久3年(1863)の家数256・人数1,356、馬84。また「弐郡詳記」では家数243軒とある。
古く当地は小野の里と云われ、「小野千軒」と呼ばれる大集落があったが、嘉祥3年(850)の大地震によって全滅したとの言い伝えが残っている。
地理的に庄内地方と内陸部の結節点にあたり、狩川の東約5kmでは最上川舟運の清川河岸が栄えていた。狩川には舟形街道が通っていた。舟形街道は奥州街道の舟形宿から出羽三山の一つ羽黒山登山口の手向宿までの街道を云うが、現在の国道47号線にあたる最上渓谷には道が無く、舟形宿から本合海または清水まで陸路で、その後最上川の舟運で清川河岸で上陸し、陸路狩川から南に進んで手向宿に向かった。
狩川の主産業は稲作中心の農業で、江戸期から今に至るまで変わっていない。また、平成大合併前は立川町といい、この狩川が行政・文化の中心地で、町役場をはじめとして各種の公共施設が置かれていた。
今、町並を歩くと、明治に入ってから土地の集積が顕著に行われたのだろう、地主階級の大きな農家建物が旧舟形街道にそって、大きな屋敷に妻面を街道に向けて連なっている町並だ。
妻面を街道に向けて入るが、切妻造りでは真壁造りであり、寄棟の家屋も見られる。樹木を多くあしらった町並を形成し、風情のある落ち着いた町並であった。
町並み指数  40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年
   山形県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1990年

狩川の町並

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